負担軽減のために
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:32 UTC 版)
1972年(昭和47年)以前は山陽新幹線がなく、特に広島東洋カープの本拠地広島市民球場への移動となると夜行列車利用や新大阪駅での乗り換えを強いられた上、広島以外の都市でも宿泊は旅館の大部屋で雑魚寝という時代もあり、選手の肉体的負担も大きかったが、現在では移動は新幹線のグリーン車または航空機、宿泊はシティホテルの個室と、体力的負担は大きく低減されている。ただし、1985年(昭和60年)の夏、ロード期間中に東京から飛行機で大阪に移動しようとした当時の球団社長中埜肇が日航123便事故に巻き込まれて死亡したことを受けて、以後阪神タイガースのセ・リーグ本拠地球場間の移動は原則新幹線利用となり、飛行機移動は交流戦期間中のパ・リーグチーム本拠地への移動や地方開催のビジターゲームに限られることになった。 「山陽本線優等列車沿革#東海道新幹線開業」も参照 この約1ヶ月の長期ロードによる負担を少しでも和らげるため、1965年(昭和40年)から1979年(昭和54年)までは甲子園球場に近い京都・西京極球場で3試合または6試合、1973年(昭和48年)から1979年までは岡山県営球場で3 - 4試合程度の主催公式戦を開催した。 その後、福岡県を本拠地としていた球団がなかった1980年から1988年 までは福岡市の平和台野球場で2試合の主催公式戦を開催していたり、他の関西地区の球場はそれぞれの本拠地球団の日程に抑えられて使用許可が出なかったり、プロ野球開催に必要な施設や収容人員などが整わないことなどから使用できず、実に3週間以上も関西での試合がない状態が続いたが、1988年にグリーンスタジアム神戸(ほっともっとフィールド神戸)が竣工すると、阪神は高校野球期間中(主に8月15日前後)にグリーンスタジアム神戸で主催公式戦を行うようになった(1994年まで)。また、グリーンスタジアム神戸がオリックス・ブルーウェーブの本拠地となった1991年からはオリックスの前本拠地である阪急西宮球場も使用した(1996年まで。この時点では阪急と阪神との経営統合の前。同スタジアム最後のプロ野球公式戦も同年8月24日の対広島東洋カープ戦だった)。
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