野球との再会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:52 UTC 版)
小西は置屋を経営するかたわら、1927年(昭和2年)から始まった都市対抗野球大会に審判員として出場する。第1回大会では、開幕戦の球審を務めた。 1936年秋、小西は大学の後輩である田部武雄に、「職業野球の新球団として、岐阜県に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)というチームを作るので監督になって欲しい」と依頼される。この新球団構想は結果として頓挫したが、その際に調整役となった大東京軍の親会社・國民新聞の社会部長・鈴木龍二と知己を得たことをきっかけに、小西は大東京軍の2代目監督に就任。鈴木は同社主幹・田中斉と赤嶺昌志の抜擢により球団常務(球団代表)となった。その際、球団経営のノウハウはおろか、野球のルールも理解していなかった鈴木に対し、小西は一緒に旅行をしては、野球知識の手ほどきをした。チームが資金難で行き詰まった際、小西は大橋財閥の共同印刷専務・大橋松雄を鈴木に紹介し、経営権を國民新聞から移行させた。 小西は大東京軍監督を2年半で辞任。その後名古屋軍の監督を務めたほか、大橋オーナーの出身会社・共同印刷の系列会社を転々とした。ただし大東京軍や野球関連の交渉事には関与し、田村駒治郎(大橋と妻同士が姉妹だった)の経営参加の要請交渉に鈴木と同席したほか、1942年シーズン終了後に審判員を辞任した明大の後輩・横沢三郎を共同印刷に入社させた。
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