審判員として
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中学生から社会人まで、さまざまな大会で自ら笛を吹き、審判長として活躍した。競泳競技が一段落し、水球や飛込競技に移ると、ほかの競泳の役員が控室に移動する中で、松沢は観戦を続け、飛込の点数を大会プログラムに書き込んでいたという。ある大会では豪雨に見舞われ、裸足にレインコートといういで立ちで審判を務め上げた。 審判中は常ににこやかであったが、大会続きで疲労した審判に向かってダラダラするなと喝を入れたことがある。また初心者にはストップウオッチの使い方から懇切丁寧に教えた。
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審判員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:16 UTC 版)
引退後、都柔連(東京都柔道連盟)の役員も務めていた父親から、都柔連で女性審判員を育てる動きがあるから審判員の試験を受けてみたらどうかと持ちかけられた。天野家では父親の言葉が絶対だったために断れず試験を受けて、1995年に国内C級審判員となった。当初は「私は審判員なんだから、私の言うことをちゃんと聞きなさい」と偉そうな気持ちも抱いていたが、国内B級審判員になる頃には、「自分には何が足りないのかな」「技術的に足りないのは何だろう?」といった自省を試みる心境の変化が生じてきたという。その後、国内A級審判員を経て、全柔連の推薦で大陸連盟主催の大会で審判を務める資格を得ることが出来るIJFコンチネンタル審判員の試験を受けて合格した。さらに2001年にはアジア柔道連盟の推薦で、オリンピックや世界選手権など主要国際大会で審判を務めることが出来るIJFインターナショナル審判員の試験を受けてこちらも合格した。 その後、世界ジュニアや世界選手権で審判を務めるという段階を経て、2008年の北京オリンピックではIJFから日本女性初のオリンピック審判員に選出された。北京オリンピックでは男子100kg級決勝のナイダン・ツブシンバヤル対アスハト・ジトケエフ戦で主審、女子78kg級決勝の楊秀麗対ヤレニス・カスティージョ戦では副審を務めるなど70試合ほど裁くことになった。 なお、北京オリンピックにおける女子48kg級準決勝の谷亮子対アリナ・ドゥミトル戦では、互いに組み手を嫌って牽制し合うなどして指導2となり、膠着状態となった残り33秒でスペイン出身の主審が谷にだけ指導3を与えて、そのまま試合終了となって谷が敗れ、結果としてこれにより谷のオリンピック3連覇が途切れた。これに対して、全柔連強化委員長の吉村和郎や女子代表監督の日蔭暢年、女子代表コーチの園田隆二などからは、試合終盤になって谷にだけ指導3が与えられたことに疑問を呈する声が上がった。また、スポーツジャーナリストの二宮清純からは審判の判断は妥当だとする一方で、「何も、残り約30秒になってとることはないじゃないか。“空気が読めない”とはこのことだ。」との意見も出された。 この点に関して天野は次のような指摘を行った。「あの指導は勇気ある正しい判断であり、あの場面における指導は決して間違いではなかった。国内の大会なら終盤は流してGSにしてしまう傾向もあるが、インターナショナル審判員の場合は、審判員としての技量をこのような場面でこそ見られているという意識が働くので、例え残り10秒であっても反則がより妥当とみなせる側にきっちりと反則を与える。それがインターナショナル審判員としてのプライドでもある。」。 さらに、審判員は事前に審判理事のフアン・カルロス・バルコスからは罰則を厳しく取るように、同じく審判理事のヤン・スナイデルスからも両者に指導を与えるのではなく、よく見極めてなるべく一方に指導を与えるようにとの方針が出されていたという。加えて、今大会は従来のように審判団3名にジュリー2名のみならず審判理事2名も加わる形で審判を行い、多数の目により詳細に確認しようという思惑が働いた。審判員は試合が終わる度にジュリーから技術レベルに関する細かい指摘を受けるなど、厳重なチェック体制が敷かれたこともあり、今大会の判定は大体納得できるものであったとの認識も示した。 2017年4月、全日本選手権において女性審判を認めてこなかった全日本柔道連盟は、女性にも門戸を開くことを発表し、天野が審判員として出場することになった。天野は「とても光栄」とコメントしている。全日本選手権では決勝で副審を務めた。 2020年12月13日に講道館に於いて行われた「2020年東京オリンピック柔道男子66kg級代表選手決定戦」の阿部一二三 VS 丸山城志郎戦の主審を担当した。20分に及ぶGSを含めた24分もの長丁場となったこの一戦では、両者の熾烈を極めた激闘ぶりを身近で感じて反則負けとなる三つ目の指導は出せなかったと語った。 2021年に開催された東京オリンピックでは、日本人唯一の審判員を務めた。 IJF審判員ランキングは8.0レイティングポイントで8位(2020年10月現在)。
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審判員として
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「ベニート・アルチュンディア」の記事における「審判員として」の解説
1985年からプロ審判として活動している。1993年から国際審判として活動しており、1994年のアメリカ vs ギリシャ戦で初めて笛を吹いた。1996年のアトランタ五輪において、「マイアミの奇跡」と呼ばれた日本 vs ブラジル戦でも笛を吹いている。2005年にはFIFAクラブワールドカップ決勝のサンパウロFC vs リヴァプールFC戦で主審を務めた。 2006年の2006 FIFAワールドカップドイツ大会では5試合を担った。その中には、準々決勝のイングランド vs ポルトガル戦や、準決勝のドイツ vs イタリア戦が含まれる。 2010年の2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会では3位決定戦のドイツ vs ウルグアイ戦を始めとする3試合で主審を務めた。これによりワールドカップ本大会で通算8試合の主審を務め、歴代タイ記録となった。
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