福岡時代
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福岡県糟屋郡宇美町出身。父親の清蔵を含め村相撲で代々大関を張った家系に生まれ、幼い頃は父親や兄と毎日のように相撲を取って遊んでいた。町立宇美小学校4年生の時に地元の若楠会道場へ入門したのが縁で柔道の道に進み、町立宇美中学校に進むと柔道部に入部して本格的に稽古に打ち込んだ。その指導は質・量ともに高校生と比べても遜色無い程の完全なスパルタ教育で、中学生では禁止技の締技や関節技も当たり前のように練習メニューに組み込まれていたという。中西曰く「いつ辞めようかと捨て身で稽古に打ち込んでいる内に、上級生になっていた」との事。高校への進学に際しては地元の県立高校の柔道部顧問に誘われ、中西自身もその教員の事を尊敬していたため迷う事無く同校を受験するが、結果はまさかの不合格に。不合格の報を聞き実家に謝罪に来たその顧問から東海大付属五高を勧められた中西は、父親の後押しもあって同校に進学する事を決意。1974年の事であった。 高校は実家から通えない距離では無かったものの柔道に専念するために親元を離れて入寮する事にした中西にとって、指導者である元全日本王者の松本安市との出会いは印象的なものとなった。入寮してきた中西を見るなり「お前、体が小さいなぁ」とぼやいた松本は、「小さかったら、練習の時には人の2倍も3倍も技を掛けないといかん。とにかく技を掛けて掛けまくるような練習を続けてたら絶対に強くなれる。そうなったら世界も夢じゃない」と続けた。その時はピンとこなかった中西だったが、松本の“世界”とう言葉が心の隅に引っ掛かり、高校生活を柔道に明け暮れるきっかけとなったという。中学時代に厳しい練習を耐え忍んだ中西には東海大付属五高での猛練習が辛いと感じる事は無く、自分は柔道で拾って貰ったという使命感とも相俟って、周囲に素行が悪く怒られる者もいる中でも中西は授業中に寝る事などせず勉強にも励み、文武両道の高校生活は充実したものであった。 必死の力・必死の心で柔道の稽古に明け暮れていたある日、本来右組であった中西が肘の怪我で十八番の背負投を出せず、何か他の得意技を体得しようと左組からの変則技を仕掛けると、これが綺麗に決まって相手を見事に投げつけた。たまたま出た名前も知らない技を自分のものにしようと練習後に打込に取り組む中西に、松本は「洒落た技をやるじゃないか」「袖釣込腰というんだ。岡野功もやっていたぞ」とアドバイスを送った。その後は柔道部の中で一番体重が重い部員に相手をして貰って全体練習後の打込練習に励み、その積み重ねで後々まで中西の必殺技となる程までに昇華していった。また、軸となる技を覚えた事で、左右の一本背負投など他の技のバリエーションも広げる事ができたという。
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福岡時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:19 UTC 版)
博多や天神などで行われた代アニ福岡校学生の学院祭公演や卒業公演で執筆・演出を手掛ける。 2006年3月に、九州で活躍する役者によって行われた韓国現代戯曲『豚とオートバイ』(李萬喜作)の演出をした。
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