コミッショナーとしての主な業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 05:41 UTC 版)
「下田武三」の記事における「コミッショナーとしての主な業績」の解説
江川事件後の混乱を収拾させた。 「飛ぶボール」の飛距離を測定して、反発力を落とすようメーカーに要望を出し、1981年のシーズンからボールを旧に復させた。同時に、王貞治などのホームラン打者が用いていたことで知られる圧縮バットの使用も禁じた。 プロ野球の公式戦を開催する可能性のある全32球場に野球規則に定められた野球場の両翼と中堅までの長さを実測させ、今後新設もしくは改造する場合、基準に沿うよう要望書を出し、その後の新球場建設にはそれが反映された。 1984年のロサンゼルスオリンピックから野球が公開競技となることが決まり、1981年12月24日に12球団のオーナーらに要望書を送付して新設する野球場は国際規格で建設するよう訴えた。 1982年、判定を不服として審判岡田功らに対し暴行を働いた島野育夫、柴田猛(当時両者とも阪神タイガースコーチ)に対し無期限出場停止処分を下した(半年後に処分は解除)→横浜スタジアム審判集団暴行事件。 1983年6月8日、試合進行の妨げになるとして、投球のサイン交換に用いられていた乱数表の使用を禁止した。 1984年、折れたバットの直撃を受けて当時西武ライオンズの黒田正宏が負傷した際には、すぐさま品質改善のためにバット製造業者に調査を依頼した。 同年には日本の野球応援はうるさいとして、応援倫理三則を定めた。 日本シリーズでセパ両リーグの条件を公平にするため、指名打者制度の導入を決めた(実施は1985年から)。 当時は12球団中10球団が関東や関西に集中していたフランチャイズの全国分散化を提唱した。下田の退任後、1989年には南海ホークス買収による福岡での福岡ダイエーホークス発足が起こり、下田の死後の2004年には本拠地移転による北海道日本ハムファイターズ発足、2005年にはプロ野球再編問題 (2004年)の末に生まれた東北楽天ゴールデンイーグルス創設があり、九州・北海道・東北の各地域での球団発足により下田の構想は実現している。
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