球団発足~初の世界一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 21:56 UTC 版)
「シンシナティ・レッズ」の記事における「球団発足~初の世界一」の解説
シンシナティでは1869年に、アメリカ合衆国史上最初のプロ野球チームとして「シンシナティ・レッドストッキングス」が誕生、レッドストッキングスはアメリカ各地を巡業し、各地のチームと対戦し多くの観客を集めた。このレッドストッキングスの選手の大半は1870年にボストンに移り、「ボストン・レッドストッキングス」(現:アトランタ・ブレーブス)として活動することになる。 1876年のナショナルリーグ創設時には、現在と同じ「シンシナティ・レッズ」を名乗る球団が新たに創設された。しかしこのチームは1880年に「球場で酒を販売しない」「日曜日は試合を組まず球場は閉鎖する」といった当時のナショナルリーグ規則に従わず、当時のリーグ会長ウィリアム・ハルバートによってリーグを脱退させられ消滅する。 その後、1882年に新たに現在につながる「シンシナティ・レッドストッキングス」が創設され、同時期に創立されたアメリカン・アソシエーションに加盟、同年にリーグ優勝を成し遂げる。1884年、ユニオン・アソシエーションが創立されると、同じシンシナティにシンシナティ・アウトロー・レッズが創設され(リーグ解散と共に1年限りで消滅)、当時レッドストッキングスが本拠地としていたバンク・ストリート・グラウンズはアウトロー・レッズが使用することとなり、レッドストッキングスは急遽リーグ・パークに本拠地を移した(リーグ・パークは1901年に火災で焼失。次の本拠地であるパレス・オブ・ザ・ファンズも1911年に火災で焼失している)。 レッドストッキングスは1890年にアメリカン・アソシエーションからナショナルリーグに鞍替えし、チーム名も現在の「シンシナティ・レッズ」となった。当時のレッズには通算284勝を挙げたトニー・マレーンや、野手ではそれぞれ2度のリーグ最多本塁打を記録したジョン・ライリーやバグ・ホリデー、引退直前まで素手でプレーしたという守備の名手ビッド・マクフィーらが在籍していたが、チームはなかなか優勝争いに顔を出せなかった。1901年の2リーグ制以後も苦戦し、20世紀初のリーグ優勝は首位打者となったエド・ローシュやキューバ出身のドルフ・ルケらが活躍した1919年となった。その間、1912年に後にクロスリー・フィールドと改名し、60年近くに渡って使用されることとなるレッドランド・フィールドに本拠地を移している。ワールドシリーズではシカゴ・ホワイトソックスと対戦。戦前は不利の予想であったが、5勝3敗(当時は9回戦制)でレッズが初のワールドチャンピオンに輝いた。しかし、翌年になってホワイトソックスの選手が八百長に加担していたことが発覚し、ジョー・ジャクソンら8選手が永久追放になる事件に発展した(ブラックソックス事件)。そのため、このシリーズはレッズが勝ったワールドシリーズというよりも、ブラックソックス事件が起こったワールドシリーズとして記憶に残ることとなる。
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