ユニオン・アソシエーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 21:35 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ユニオン・アソシエーション(Union Association)は、1884年の1年間だけアメリカ合衆国で運営されていた、プロの野球リーグ。多くの資料でメジャーリーグベースボールのリーグとして扱われている。
歴史・背景
リーグは1884年に、ミズーリ州セントルイスの資産家であったヘンリー・ルーカスと彼に協力する資産家たちによって創設された。当時26歳だったルーカスは、莫大な遺産を相続した後、故郷のセントルイスにナショナルリーグの球団を誘致しようとしたが、セントルイスには既にアメリカン・アソシエーションでセントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)が活動していたこともあり、ナショナルリーグがセントルイスの球団設立を拒否、ルーカスは自分の資産を使って新たな野球リーグを創設することにした。
それより前の1879年にナショナルリーグで合意されていた『保留条項』により、野球選手の給料が低く抑えられていたことへの対抗策の意味合いもあり、リーグは選手との契約について殆ど制限をつけていなかったという。ルーカス自身も自らが所有するセントルイス・マルーンズの強化に腐心し、ナショナルリーグのような戦力均衡や収入分配などは行われていなかったようで、結果参加チーム同士の実力差が極端に広がってしまい、優勝争いへの関心が薄れてしまうことになった。運営基盤の弱いチームがシーズン中に次々と解散してリーグを離れる事態もおきてしまったことで、リーグは『オニオン・リーグ』と揶揄されることもあった。
結局はルーカスが所有するセントルイス・マルーンズに、翌年のナショナルリーグ参加への道が開けたことで、1885年1月にリーグは解散する。マルーンズはナショナルリーグに加盟したが、その後わずか2年で消滅することになる。
諸記録
参加チーム・リーグ戦績・順位
※順位は勝率による。
順位 | チーム名 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | ゲーム差 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | セントルイス・マルーンズ | 114 | 94 | 19 | .832 | - |
2 | ミルウォーキー・ブルワーズ | 12 | 8 | 4 | .667 | 35.5 |
3 | シンシナティ・アウトロー・レッズ | 105 | 69 | 36 | .657 | 21.0 |
4 | ボルチモア・モニュメンタルズ | 106 | 58 | 47 | .552 | 32.0 |
5 | ボストン・レッズ | 111 | 58 | 51 | .532 | 34.0 |
6 | シカゴ・ブラウンズ | 93 | 41 | 50 | .451 | 42.0 |
7 | ワシントン・ナショナルズ | 114 | 47 | 65 | .420 | 46.5 |
8 | フィラデルフィア・キーストーンズ | 67 | 21 | 46 | .313 | 50.0 |
9 | セントポール・ホワイトキャップス | 9 | 2 | 6 | .250 | 39.5 |
10 | アルトゥーナ・マウンテンシティー | 25 | 6 | 19 | .240 | 44.0 |
11 | カンザスシティ・ユニオンズ | 82 | 16 | 63 | .203 | 61.0 |
12 | ウィルミントン・クイックステップス | 18 | 2 | 16 | .111 | 44.5 |
参加球団の変遷
- アルトゥーナ・マウンテンシティーが5月31日を最後に解散、カンザスシティ・ユニオンズが参加。
- フィラデルフィア・キーストーンズが8月7日を最後に解散、ウィルミントン・クイックステップスが参加。
- シカゴ・ブラウンズが8月22日を最後に本拠地を移転、ピッツバーグ・ストージスとなる。
- ウィルミントン・クイックステップスが9月12日を最後に解散、ミルウォーキー・ブルワーズが参加。
- ピッツバーグ・ストージスが9月18日を最後に解散、セントポール・ホワイトキャップスが参加。
シーズン記録
- ※一部統計は試合記録などから後年計算されたものである。
- またユニオン・アソシエーションの個人別の打点記録は現在判明していない。
- 通算記録
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- 最多勝利数:40(ビル・スウィーニー)
- 最優秀防御率:1.54(ジム・マコーミック)
- 最高打率:.412(フレッド・ダンラップ)
- 最多安打:185(フレッド・ダンラップ)
- 最多得点:160(フレッド・ダンラップ)
- 最多本塁打:13(フレッド・ダンラップ)
外部リンク
- 1884 Season (Retrosheet)
- Alfonso Park - ウェイバックマシン(2005年3月27日アーカイブ分)
- Super70s.com
- St.Louis History
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ユニオン・アソシエーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 17:03 UTC 版)
「1884年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ユニオン・アソシエーション」の解説
前年の12月12日にユニオン・アソシエーションが創設され、この新設のリーグはたちまちナショナルリーグとアメリカンアソシェーションの選手に猛烈に働きかけて約50名の選手が参加したが、その後選手の多くが中途で翻意し、またシーズンが始まってからも古巣に戻る選手が出て、ユニオン・アソシエーションはこの年限りでわずか1年で解散した。ただユニオン・アソシエーションの動きは、既存の2つのリーグに混乱をもたらした。 この新しい動きへの対抗策としてアメリカン・アソシエーションは球団数を増やし、前年の8チームから12チームになったが、結果は全球団が赤字となった。またシーズン当初に首都ワシントンではユニオン・アソシエーションにも、アメリカン・アソシエーションにも「ワシントン・ナショナルズ」という同名の球団が複数併存する事態となって、アメリカン・アソシエーションのワシントン・ナショナルズはシーズン途中で解散したため、リッチモンド・バージニアンズが交代して加盟し、シーズン後半の試合を行ったため、この年のアメリカン・アソシエーションは13球団となった。 一方ナショナルリーグではクリーブランド・ブルースが主力投手のジム・マコーミック、ヒュー・デイリー、中心打者のフレッド・ダンラップをユニオン・アソシエーションの各チームに取られ、クリーブランド・ブルースは弱体化してこの年に35勝77敗で勝率.329の成績となり、チームは解散を余儀なくされた。しかも解散に追い込んだユニオン・アソシエーション会長でありセントルイス・マルーンズのオーナーでもあったヘンリー・ルーカスは、抜け目なくここに目をつけて、クリーブランド・ブルースのフランチャイズ権をセントルイス・マルーンズが買い取り、翌年にユニオン・アソシエーションの公式試合を中止して協会を解散させ、自身はナショナルリーグに加盟することで苦境を乗り切った。 ただし、このセントルイスにナショナルリーグの球団がフランチャイズを置くことは、実は前年秋にナショナルリーグとアメリカン・アソシエーションとマイナーリーグのノースウェスタンリーグとの三者協定でそれぞれのリーグの地域権を尊重する、という1項目に明らかに違反するものであった。ところが、被害を受けたはずのアメリカン・アソシエーション にも問題が起こっていた。弱体化して解散したクリーブランド・ブルースの選手たちを、この1884年に加盟したばかりのブルックリン・アトランティックス(後のドジャース)が球団を買収した形でアトランティックスに入団させたことが、同じ前年秋の協定で選手間の移動について当該リーグと10日以内に協議をするとの1項目にも明らかに違反した行動であった。当然ナショナルリーグはアメリカン・アソシエーションに当該球団のブルックリン・アトランティックスの除名を要求した。そして、この同時に起こった両方のリーグの問題は政治的な取引の材料となって、双方ともに不問に付す決着となった。
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