ユニオンズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:37 UTC 版)
「ヴィクトル・スタルヒン」の記事における「ユニオンズ時代」の解説
1954年には高橋ユニオンズに移籍する。この時は慕っていた藤本と一緒ではなく、藤本に「高橋は契約金をくれる。もう長くはできないだろうからもらっておけ」と勧められたからだった。後に、このお金を元に、美容院と薬局を経営する。シーズン前には相当に肥満して「まるで相撲取りのようだ」と言われ、7月まで2勝7敗と調子が上がらなかった。8月以降は6勝6敗と盛り返し、バックが弱い中でシーズンでは何とか8勝(13敗)を重ねた。 1955年に慕っていた母親を亡くす。同年春の岡山キャンプでは「痩せること」を課題に取り組み、村社講平臨時コーチの指導を受けて苦手だった走り込みを徹底的に行い、体重を32貫(120㎏)から26貫(97.5㎏)まで落とす減量に成功する。シーズンが始まると、スタルヒンの3連敗を含めて高橋は開幕12連敗を喫するが、4月13日の対大映スターズ戦でチームの初勝利を現役最後となる83個目の完封勝利で飾った。9月4日の対大映戦(西京極)で史上初の通算300勝を完投勝利で達成したが、後になって1939年の記録を当初の公式記録通りに戻したため、同年7月30日に開かれた近鉄パールス戦(川崎球場)での勝利が300勝となる。節目となる100勝目・200勝目・300勝目をすべて異なるチームで記録しており、これは6人いる300勝以上の投手(他に金田正一・米田哲也・小山正明・鈴木啓示・別所毅彦)の中では唯一である。 試合後のインタビューでは「若林さん(若林忠志)も42までやったし、僕もまだ続けたい」と意気込みを語っており、日本経済新聞にも「私もあと5~6年は放るつもりだ。目標は三振2000個と、シャットアウト勝、100勝である。」との手記を載せているが、同年限りで現役引退。この年チーム2位の7勝(21敗)を稼ぎ本人も現役続行を希望したが、翌年からの監督就任が決まった笠原和夫がアンチ笠原派と言われていたスタルヒンを解雇したとも言われる。最後は無給でもいいから巨人で投げたいと希望したともされるが、その願いは叶わなかった。引退後のスタルヒンはいつもどこか寂しげだったという。
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