高橋・国鉄監督
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1954年、パ・リーグの永田雅一総裁の画策で、前年までの7球団から追加された高橋ユニオンズの創設に伴い監督に就任。この就任は、毎日オリオンズの球団代表で、パ・リーグ理事長だった黒崎貞治郎を介してのもの。黒崎は麻雀友達であった。永田から「各チームから有望な若手選手を供出させる」という約束を信じ切って 既存の7球団から若い選手を預かり育てて、元の球団に選手を返すという計画を立てたが、実際に移籍したのはベテラン選手や監督に食ってかかるような問題がある選手が殆どであった。特に広商の後輩筋にあたる南海の鶴岡一人監督からは、笠原和夫、江藤正、服部武夫、黒田一博といった若手選手とは言えない酒好きで有名な選手を押し付けられた。やむなく新外国人獲得のためハワイに渡るが、収穫もなく帰国すると大勢の報道陣に囲まれ、自身が留守の間にユニオンズがこんなに注目されるチームになったかと喜んだが、報道陣の目当ては、同じパンナム便で来日したマリリン・モンローとジョー・ディマジオ夫妻であったという逸話が残る。"気品と闘志"というスローガンを掲げ、チームを鼓舞し、この年は最下位候補といわれながら8チーム中6位と健闘したが、トンボ鉛筆がスポンサーに加わり、トンボユニオンズとチーム名を改称した1955年には開幕11連敗を始め負けが込み、ノイローゼとなって頭も禿げてしまい シーズン終盤の9月20日、124試合で退任した。後を継いだ笠原和夫もチームを立て直すことは出来ず、当時あった罰則規定の勝率3割5分に及ばず(42勝98敗、勝率はジャスト3割)罰金500万円を課せられた。理由は不明だが、ことのほかスタルヒンの300勝達成に執着し苦心の継投策を行った。他にユニオンズの創設で阪急から浜崎監督と共に移籍した浜崎勝は息子で、プロ野球最初の親子選手といわれる。 その後、毎日オリオンズの二軍コーチをしながら、スポーツニッポンや報知新聞、朝日放送の評論家・解説者を務めた。1960年には、慶應の後輩で巨人監督の水原茂に投手陣の立て直しを頼まれ、一軍投手コーチに就任。非常に暗いチームを憂い水原には「もっと選手の中に飛び込んでいけ」と進言したが、この年リーグ優勝を逃し水原は退陣、浜崎も身を引いた。巨人退団後はフジテレビ解説者・サンケイスポーツ評論家(1961年 - 1962年)を務め、これが縁で産経新聞社水野成夫社長から直談判を受け、1963年には産経が経営参加する国鉄スワローズ監督に就任。この頃、オーナー企業の国鉄と産経の力関係が微妙で、また立教大学出身の砂押邦信前監督一派が非協力的だったが、天皇と言われた金田正一にも厳しく接するなどした。浜崎が「カネ、投手はバッティング練習をしなくていい」と言ったら金田が「ワシはアンタに国鉄の状態がわかるのか。ワシが打たないと勝てないぞ。打てなくて負けたら責任取ってくれるかと詰め寄ったら、黙って練習させてくれたな」と述べている。トレードで北川芳男を放出し巨人から宮本敏雄らを獲得し、西鉄から金銭トレードで豊田泰光を獲得し、打撃コーチには同郷の藤村富美男を招聘した。その甲斐あって、チーム打率は前年の.201(6位)から.241(4位)、1試合平均得点は2.3点から3.4点にアップした。対巨人戦には16勝12敗で勝ち越し、うるさ型の金田・豊田を抑えて大過なくチームをまとめてきたのも浜崎の功績が大きかった。 国鉄監督を退いた後、ニッポン放送の解説などを務めた。1964年同局に入社した深澤弘のプロ野球実況デビュー戦の解説の相手だったという。深澤は先輩アナから「浜崎さんを一度でも怒らせたら試合中は喋ってくれない」と忠告されたが、試合開始前の挨拶で「なんでも聞いてくれ」と言われ、技術的なこともわかりやすく説明してくれたという。 プロ野球黎明期に非常に指導者として評価の高かった人物で、阪急フロントとしっくりいっていなかった1950年には、長老・小西得郎がネット裏から見た浜崎の野球に惚れ込み、松竹ロビンスで球界復帰する際、当初監督を浜崎、助監督を水原茂の構想だったが、諸事情で失敗すると、今度は自身監督就任なら浜崎を助監督に就ける事を強く要請した。しかし当時は引き抜きが大きな問題となっていた時期で結局流れたという逸話も残る。小西とも古くからの麻雀友達で付き合いがあった。 阪急時代の挿話として吉田義男(後の阪神タイガース監督)の獲得を見送った話がある。立命館の一回生だった吉田を見たスカウトが浜崎に吉田を激賞、熱心に聴いていた浜崎が念のために体格を聞き、身長155.6cmのスカウトが「大丈夫です。私より2寸も高いんです」と言ったとたんに「あほう、そんなチビが採れるかい」と一蹴した、というもので、浜崎自身の身長がスカウトと同じだったことからユーモラスな挿話として有名になった。ヘビースモーカーで試合中にも関わらずベンチでタバコを吹かしていたとか、大差をつけられると采配を人任せにしてベンチからいなくなったとか、負けが込み過ぎたユニオンズ時代には試合の始まる前にしか来なかったの証言もあった。監督時代は「雷おやじ」と呼ばれ、野球評論家時代にも辛口批評で「球界彦左」「球界のご意見番」などと呼ばれた。口が悪く、遠慮なくズケズケと欠点を突くが、その内容が正鵠を得ているので反って親しみを持たれたという。 苅田久徳の自伝の中に浜崎を指し「私以上の毒舌もの」との件があるが、晩年の1978年に記した浜崎の自著「48歳の青春」の中でも国鉄時代のコーチ・藤村富美男を「外見の印象とは違う幼稚園の子供のようなサインを出す小心者」とか阪急・近鉄監督時代の西本幸雄が、和歌山県出身者と毎日時代の仲間でコーチングスタッフを固めるのを「縁故のある者ばかり呼び集めてもダメ」などと切り捨てている。晩年は貴金属商を経営していた。 日本野球界への長年の功績により1978年、野球殿堂入り。1981年5月6日死去した。享年81(79歳没)。 2000年代以降、工藤公康や山本昌など高齢ながら現役を続ける投手が増えたため、浜崎の名前もスポーツ紙などでよく取り上げられる。
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