高橋・国鉄監督とは? わかりやすく解説

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高橋・国鉄監督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 19:40 UTC 版)

浜崎真二」の記事における「高橋・国鉄監督」の解説

1954年パ・リーグ永田雅一総裁画策で、前年までの7球団から追加され高橋ユニオンズ創設に伴い監督就任。この就任は、毎日オリオンズ球団代表で、パ・リーグ理事長だった黒崎貞治を介してのもの。黒崎麻雀友達であった永田から「各チームから有望な若手選手供出させる」という約束信じ切って 既存の7球団から若い選手預かり育てて、元の球団選手返すという計画立てたが、実際に移籍したのはベテラン選手監督食ってかかるような問題がある選手が殆どであった。特に広商後輩筋にあたる南海鶴岡一人監督からは、笠原和夫江藤正服部武夫黒田一博といった若手選手とは言えない酒好き有名な選手押し付けられた。やむなく新外国人獲得のためハワイに渡るが、収穫もなく帰国する大勢報道陣囲まれ自身留守の間ユニオンズこんなに注目されるチームになったかと喜んだが、報道陣目当ては、同じパンナム便で来日したマリリン・モンロージョー・ディマジオ夫妻であったという逸話が残る。"気品闘志"というスローガン掲げチーム鼓舞しこの年最下位候補といわれながら8チーム中6位と健闘したが、トンボ鉛筆スポンサー加わりトンボユニオンズチーム名改称した1955年には開幕11連敗始め負け込みノイローゼとなって頭も禿げてしまい シーズン終盤9月20日124試合退任した。後を継いだ笠原和夫チーム立て直すことは出来ず当時あった罰則規定勝率3割5分に及ばず4298敗、勝率ジャスト3割)罰金500万円課せられた。理由不明だが、ことのほかスタルヒン300達成執着し苦心継投策を行った。他にユニオンズ創設阪急から浜崎監督と共に移籍した浜崎勝息子で、プロ野球最初親子選手といわれるその後毎日オリオンズ二軍コーチしながらスポーツニッポン報知新聞朝日放送評論家解説者務めた1960年には、慶應後輩巨人監督水原茂投手陣立て直し頼まれ一軍投手コーチ就任。非常に暗いチーム憂い水原には「もっと選手中に飛び込んでいけ」と進言したが、この年リーグ優勝逃し水原退陣浜崎身を引いた巨人退団後はフジテレビ解説者サンケイスポーツ評論家1961年 - 1962年)を務め、これが縁で産経新聞社水野成夫社長から直談判を受け、1963年には産経経営参加する国鉄スワローズ監督就任この頃オーナー企業国鉄産経力関係が微妙で、また立教大学出身砂押邦信監督一派非協力的だったが、天皇と言われ金田正一にも厳しく接するなどした。浜崎が「カネ投手バッティング練習をしなくていい」と言った金田が「ワシアンタ国鉄の状態がわかるのか。ワシ打たない勝てないぞ。打てなくて負けた責任取ってくれるかと詰め寄ったら、黙って練習させてくれたな」と述べている。トレード北川芳男放出し巨人から宮本敏雄らを獲得し西鉄から金銭トレード豊田泰光獲得し打撃コーチには同郷藤村富美男招聘した。その甲斐あってチーム打率前年の.201(6位)から.241(4位)、1試合平均得点は2.3点から3.4点にアップした。対巨人戦には1612敗で勝ち越しうるさ型金田豊田抑えて大過なくチームまとめてきたのも浜崎功績大きかった国鉄監督退いた後、ニッポン放送解説など務めた1964年同局入社した深澤弘プロ野球実況デビュー戦解説相手だったという。深澤先輩アナから「浜崎さんを一度でも怒らせた試合中喋ってくれない」と忠告されたが、試合開始前挨拶で「なんでも聞いてくれ」と言われ技術的なこともわかりやすく説明してくれたという。 プロ野球黎明期に非常に指導者として評価高かった人物で、阪急フロントしっくりいっていなかった1950年には、長老小西得郎ネット裏から見た浜崎野球惚れ込み松竹ロビンス球界復帰する際、当初監督浜崎助監督水原茂構想だったが、諸事情失敗すると、今度自身監督就任なら浜崎助監督就ける事を強く要請した。しかし当時引き抜き大きな問題となっていた時期結局流れたという逸話も残る。小西とも古くからの麻雀友達付き合いがあった。 阪急時代挿話として吉田義男(後の阪神タイガース監督)の獲得見送った話がある。立命館一回生だった吉田見たスカウト浜崎吉田激賞熱心に聴いていた浜崎念のため体格聞き身長155.6cmのスカウトが「大丈夫です。私より2寸も高いんです」と言ったとたんに「あほう、そんなチビ採れるかい」と一蹴した、というもので、浜崎自身身長スカウト同じだったことからユーモラスな挿話として有名になった。ヘビースモーカー試合中にも関わらずベンチタバコ吹かしていたとか、大差つけられる采配人任せにしてベンチからいなくなったとか、負け込み過ぎたユニオンズ時代には試合の始まる前にしか来なかったの証言もあった。監督時代は「雷おやじ」と呼ばれ野球評論家時代にも辛口批評で「球界彦左」「球界ご意見番」などと呼ばれた。口が悪く遠慮なくズケズケ欠点を突くが、その内容正鵠得ているので反って親しみ持たれたという。 苅田久徳自伝中に浜崎指し「私以上の毒舌もの」との件があるが、晩年1978年記した浜崎自著48歳青春」の中でも国鉄時代コーチ藤村富美男を「外見印象とは違う幼稚園の子のようなサインを出す小心者」とか阪急近鉄監督時代西本幸雄が、和歌山県出身者毎日時代仲間でコーチングスタッフを固めるのを「縁故のある者ばかり呼び集めてダメ」などと切り捨てている。晩年貴金属商を経営していた。 日本野球界への長年功績により1978年野球殿堂入り1981年5月6日死去した享年8179歳没)。 2000年代以降工藤公康山本昌など高齢ながら現役続け投手増えたため、浜崎の名前もスポーツ紙などでよく取り上げられる

※この「高橋・国鉄監督」の解説は、「浜崎真二」の解説の一部です。
「高橋・国鉄監督」を含む「浜崎真二」の記事については、「浜崎真二」の概要を参照ください。

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