近鉄監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 17:32 UTC 版)
NHK野球解説者・スポーツニッポン評論家を経て、1993年から1995年途中まで近鉄の監督を務めた。近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。引退の時点でオーナーの佐伯勇から「鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ」と言われていたという。 監督に就任した1993年の春季キャンプでは選手たちに「スパイクを履いてランニングするように」と指示したところ、当時近鉄のコンディショニングコーチであった立花龍司に「この時期(冬場)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい」と指摘された。鈴木は自身の体験を踏まえ「野球選手がスパイクを履いてランニングするのは当たり前だ」と譲らず、結局鈴木と立花が調整方法を巡って対立することになり、同年シーズン終了後に立花は退団。同時に立花を信頼していたエース野茂英雄や吉井理人ら投手陣との対立を招くきっかけとなった。そして野茂・吉井を二軍落ちさせた結果、1995年初めに野茂がメジャーリーグのドジャースへ、吉井がヤクルトへとそれぞれ移籍した。特に野茂への批判は痛烈を極め「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言い切った。ただし、野茂が移籍したのは、鈴木との対立だけではなく、球団やフロントへの不信感もある(詳しくは野茂英雄の項も参照)。吉井は「近鉄時代は鈴木啓示監督から球が高いという理由で干されたこともある。」と著書に記している。 1995年、開幕から選手の不調や怪我が多発したことも重なりチームは低迷。シーズン途中で監督を辞任。また同年、メジャーへ移籍した野茂が大活躍したことをはじめ、吉井がヤクルトで日本一に貢献する活躍をしたことや、鈴木と対立した立花が千葉ロッテに移籍して陰ながら躍進を支えたことから、鈴木に対する風当たりはさらに強いものとなった。このため「自己の考えを部下に押し付けるだけの監督」というイメージが定着し、監督としての評価は芳しくない。鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、これらに関して複雑な心境を自著の中で述べている。 野村克也は自著『野村ノート』の中で、当時、巨人に在籍していた上原浩治と重ね、エースと呼ぶのに相応しい投手だったとした上で、無理しない、意気に感じないという鈴木の思いが相手チームだけでなく、味方も感じていたと述べ、300勝という数字を残している投手であるにも関わらず、監督になって成功しなかったと指摘している。その上で、チームの中で生きていく以上自己中心というのは致命的だと述べている。加えて、自著『俺の苦言を聞け!』の中で、楽天に在籍していた岩隈久志が、当時の岩隈の考えと岩隈がプロに入って最初に在籍した球団が近鉄であったことを重ねた上で、以下のように述べている。近鉄と阪急の熾烈な優勝争いをしている70年代のある年のシーズン終盤の直接対決で、9回だけでも鈴木に投げさせれば逃げ切れる展開で、なぜか鈴木を投入しなかったことがあった。野村が当時の近鉄監督だった西本幸雄にその理由を尋ねたところ、西本は「鈴木本人がリリーフを拒否した」と返し、野村は驚いたという。野村自身も鈴木に対し、エースなのになぜ自分から行こうとしないのかと質したところ、「無理をして故障したら誰が面倒を見てくれるのか」と返され、「これはダメだ。こいつ(鈴木)はエースとは呼べないな」と思ったといい、鈴木本人をまさにワガママ、自己中心主義を絵に描いたような人物で、チームが窮地に立っていても、自分のことしか考えていないと述べている。 金村義明は自著『勝てる監督 負けるボス』において、鈴木を「最低の監督」と評している。同著は野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という「本音」も紹介している。なお、金村も1994年にFA権を行使し、中日に移籍している。当時、ロッテのGMだった広岡達朗も「近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃダメ」と酷評している。 大村直之は高校の後輩にあたり、大村が出場した1993年夏の甲子園のビデオを見て、牽制球を投げられては「こい。もっとこい」と投手を挑発するような根性が鈴木の目に留まり、鈴木は球団に大村をドラフトで指名するように進言した。大村はその後、近鉄のレギュラーを獲得し、他にも、中村紀洋・水口栄二をレギュラーに抜擢するなど、鈴木がこの時期にレギュラーに抜擢した野手は後に2001年の優勝に貢献することになる。即レギュラーには抜擢されなかったが、鈴木在籍時のドラフトでは93年に的山哲也、94年に川口憲史を指名し2001年優勝時のレギュラーメンバーとなっている。また鈴木退任のオフにトレードに出されたバイプレーヤーの大島公一も移籍先で主軸となるなど、投手出身でありながら野手を見る目はあった。 鈴木は自身の監督時代について「力不足やったな。自分が投げとる気分でやってしまったから。選手をうまく使ってやらなイカンのに、選手を萎えさせとったこともあった。今思えば、反省ばかりやな。ナシ(梨田昌孝) にも(コーチで)助けてもうたけど、アカンかった」と語るなど、自らの欠点と失敗を認めている。
※この「近鉄監督時代」の解説は、「鈴木啓示」の解説の一部です。
「近鉄監督時代」を含む「鈴木啓示」の記事については、「鈴木啓示」の概要を参照ください。
近鉄監督時代(1962 - 1964)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:22 UTC 版)
「別当薫」の記事における「近鉄監督時代(1962 - 1964)」の解説
近鉄では打の軸には前年に大鉄高校を2年で中退して入団したものの、一軍出場もなく僅か1年で整理対象選手となっていた土井正博を抜擢。別当は土井の長距離打者としての才能を見出だして4番に起用し、周囲の雑音をものもせずに使い続け、実戦の中で鍛え上げたのは語り草となっている。土井は「18歳の4番打者」として一躍話題を呼ぶが、結果は出なかった際は「弱小球団の単なる話題作り」と非難されたこともあった。土井は後に「根本さんとの出会い、そして別当さんとの出会いがなければその後の土井正博はなかったと言ってもいいでしょう。別当さんは山内さん、葛城さん、榎本さんらの才能を見抜いて育てた方でしたから最下位続きでぬるま湯につかっていた近鉄というチームを若手の抜擢で作り直そうとしたのでしょう。別当さんは勝つ監督ではない。育てる監督です。優勝はなくても山内さん、榎本さん、僕、松原誠と、2000安打を打った打者をこれだけ育てているんです。素質を見抜く眼力、そして、何があろうと、コイツはと思った選手を使い続ける信念がありました。どの球団でも、その後への土台作りをした監督。もっと評価されるべき。」と述べている。 初シーズンは相変わらず最下位であったものの、ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を獲得し、またそれまで目の出なかった久保征弘が「クボ・ボール」という独特の落ちる球を駆使し、29勝で最多勝を獲得するなど活躍。投手陣は久保の29勝をはじめ、黒田勉とグレン・ミケンズがローテーションを守ったが打線の援護がなく、黒田は8勝23敗と大きく負け越した。打撃陣はブルーム、土井の活躍もありチーム打率リーグ2位の.252を記録するも、本塁打70本はリーグ5位に終わり、盗塁数も64個でリーグ最下位に終わった。対戦成績では前年が首位との差が51.5ゲームだったのに対し、この年は優勝の東映に8勝18敗と大きく負け越したが、21ゲーム差へと縮まった。2位の南海に12勝14敗、4位の大毎に13勝13敗とそれぞれ健闘した。 2年目の1963年は最下位脱出が期待されたが、4月は開幕ダッシュに失敗して首位の南海と7ゲーム差の最下位で終了。5月以降はブルームや関根潤三、小玉明利、土井正博など打線の活躍で3位に浮上すると前年優勝の東映とのAクラス争いが終盤まで続いた。東映の不調もありチームは9年ぶりのAクラス復帰を狙ったが、残り5試合を優勝を争う南海と西鉄相手に全敗し4位に転落。力及ばず東映とのAクラス争いに負けたものの貯金1でシーズンを終え、翌年に期待を持たせる結果となった。投手陣は前年最多勝の久保が20勝こそ逃したものの19勝と2.36で防御率1位、徳久利明がチームトップの20勝、2年目の山本重政が9勝17敗と負け越しながらもチームトップの168奪三振を記録するなど好調でこの3人がチーム勝ち星の4割を稼いだが、救援陣の不調もありチーム防御率はリーグ5位であった。打撃陣は前述のブルームが首位打者、4番の土井がリーグ最多二塁打を記録するなど打線が好調で本塁打は98本のリーグ5位ながらも、チーム打率と二塁打がリーグ1位を記録した。 最下位→4位と浮上し、1964年はAクラス入りを狙うチームとして開幕ダッシュ成功と行きたかったが、最下位で4月を終了。5月には13勝14敗1分と健闘するも6月以降は負けが込み、最下位に定着。9月に6連勝して上位陣を脅かすも時すでに遅く、5位の西鉄同様マッチレースを繰り広げる南海・阪急などの草刈り場となり最終的に優勝の南海に28.5ゲーム差、5位西鉄には9ゲーム差を付けられて全日程を終了。前年4位躍進の原動力となった投手陣は佐々木宏一郎がリーグ最多の73試合に登板し、久保・徳久をはじめ4人が2桁勝利を挙げた一方、23敗で最多敗の徳久をはじめ5人が2桁敗戦を喫するなど好不調の波が激しく、防御率・被安打・自責点ともにリーグ最下位。打撃陣は4番の土井がチームトップの28本塁打を放つなど打線が前年同様好調で打率ベスト10に4人を送り込んだが、守備が粗く失策はリーグ最下位の165個を記録。
※この「近鉄監督時代(1962 - 1964)」の解説は、「別当薫」の解説の一部です。
「近鉄監督時代(1962 - 1964)」を含む「別当薫」の記事については、「別当薫」の概要を参照ください。
- 近鉄監督時代のページへのリンク