近鉄コーチ・監督時代
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1970年、三原が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任。主に攻撃時は三塁ベースコーチを担当し、1979年の日本シリーズ第7戦における「江夏の21球」が伝説になった広島との日本シリーズでも三塁ベースコーチを担当していた。1974年から1981年まで近鉄の監督だった西本幸雄は「仰木はベンチのサインを1度も間違えなかった」と語っている。1984年からはヘッドコーチとなり、1985年には仰木の要請で西鉄の先輩である中西太が打撃コーチに就任している。 1987年オフ、岡本伊三美の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末、「10.19」でリーグ優勝を逃した。前年度最下位のチームを率いて当時黄金期の西武をあと一歩のところまで追い詰めた、様々な奇策による好采配は、恩師・三原の「三原魔術(マジック)」に倣って「仰木魔術(マジック)」と称された。 1989年は、オリックス、西武との三つ巴の優勝争いとなり、2位のオリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)で、チームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、3連勝の後の4連敗を喫し、チーム初の日本一を逃した。 その後は毎年Aクラス入りはするが、1991年 - 1992年と2年連続西武との優勝争いに敗れ、1992年をもって退任した。近鉄監督時代には、野茂英雄や赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。
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