江夏の21球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 13:59 UTC 版)
「江夏の21球」(えなつのにじゅういっきゅう)は、山際淳司による短編ノンフィクション作品である。1979年11月4日の日本シリーズ第7戦(広島東洋カープ対近鉄バファローズ)において、江夏豊(広島東洋カープ)が9回裏に投じた全21球に焦点を当てている[1]。
注釈
- ^ 第7戦は近鉄の主管試合だが、本拠地である藤井寺球場は当時はまだナイター設備が無く、事実上本拠地として使用されていた日本生命球場は収容人数が3万人に満たしていなかった為、南海ホークスの本拠地である大阪球場を間借りして行われていた。
- ^ 当時、日本シリーズでは指名打者制が採用されていなかった(初採用は1985年)。
- ^ 山際の著書には「延長戦は試合開始から4時間を経過した後、新しいイニングに入らないという規定がある」という記述があるが[11]、これは誤りで、1979年当時の日本シリーズの延長戦規定は「17:30を過ぎて新しいイニングに入らない」(当時は原則13:00試合開始)であった。仮に延長戦に入った場合、広島の10回表は2番・衣笠からの攻撃になるが、9回裏の開始時点では16時を少し回ったところで、また現在より平均試合時間が30分ほど短かったことを考えれば11回表くらいで9番に入っている江夏に打順が回る可能性が考えられた。
- ^ 山極の『江夏の21球』にも「ベンチでショートホープを吸う江夏」の描写がある[25]。
- ^ 当初、エンドロールテロップでは「島村俊司」と誤記されていた。NHKアーカイブス枠などで再放送されたものは、新たにテロップが入れ直されて正しいものに修正されている。
- ^ 体調悪化で降板し、直後の1995年5月29日に他界した。
- ^ Sports Graphic Number790、p.42でも裏付けられる。
- ^ 2009年発行の「なぜ阪神は勝てないのか?〜タイガース再建への提言」では、江夏が「翌年の開幕日に古葉にこのことの不満をぶつけ、古葉と急遽話した結果、和解した」と自ら述べている。
- ^ NHK特集の中でもネクストバッターズサークルで待つ佐々木の後ろで、西本が吹石に耳打ちをしているシーンが放送されている。
- ^ NHK特集でも、佐々木は「何がしたいと言ったら、もう一回この場面がしたいです」とコメントしている。
- ^ 1978年の日本シリーズ第7戦の6回裏にヤクルトスワローズ・大杉勝男が放った本塁打の判定を巡り、当時阪急ブレーブスの監督だった上田が1時間19分もの抗議をおこなったことを指す。
- ^ 二宮清純の「江夏の二十一球は十四球のはずだった」では、上田自身が「本当は早めに引き上げようと思っていたが、最後の最後までそのタイミングを計れなかった。判定は現在も誤審だと思っているが、選手には悪いことをしたと思っている」と認めている[32]ほか、『ベースボールマガジン』編集長の佐藤正行は「普段であれば抗議はチームや選手のことを考えて引くタイミングがある。選手やチームが一番燃えて、よし次のプレーとなるタイミング。僕だって判定が覆らんのは分かってるから。でも、あのときはそれができんかった」という上田のコメントを記している[33]。
- ^ Sports Graphic Number790、p.42では「無死満塁の場面」でのこと。
- ^ Sports Graphic Number790、p.43によると、江夏や衣笠も石渡を見たときにスクイズを考えたという。
- ^ a b c ピッチアウトのこと。本来のウエストボールは単なる「遊び球」の意味である。
- ^ 工藤は、古葉監督時代の広島においてはこういったサイン盗みが行われており、それが球界における古葉の評価を下げた原因だと主張している。ただし、当時はサイン盗みはどこの球団でも行っていたという事実がある。
出典
- ^ “江夏の21球 “赤ヘル野球”軌道乗った1979年”. デイリースポーツ. (2022年7月14日) 2022年7月18日閲覧。
- ^ 小川亨(インタビュアー:高野勲)「「江夏の21球」続きあれば…次打者席の小川亨氏「勝負したかった」/パ伝説」『日刊スポーツ』、2021年10月19日 。2022年11月5日閲覧。
- ^ a b 昭和55年 写真生活 2016, pp. 30–31.
- ^ “1979年度日本シリーズ 試合結果(第7戦)”. NPB.jp. 日本野球機構. 2021年7月15日閲覧。
- ^ 江夏 & 松永 2015, pp. 187, 189.
- ^ 山際 1985, pp. 40–42.
- ^ 山際 1985, pp. 42–44.
- ^ 山際 1985, pp. 43–44.
- ^ 山際 1985, pp. 45–46.
- ^ 山際 1985, pp. 46–50.
- ^ 山際 1985, pp. 56–57.
- ^ 山際 1985, pp. 50–51.
- ^ 山際 1985, pp. 47–49.
- ^ 山際 1985, p. 49.
- ^ 山際 1985, pp. 52–53.
- ^ 山際 1985, p. 53.
- ^ 山際 1985, pp. 53–54.
- ^ 山際 1985, pp. 55–56.
- ^ 山際 1985, pp. 54–55.
- ^ 山際 1985, p. 56.
- ^ 山際 1985, p. 36.
- ^ 山際 1985, pp. 36–38, 56–59.
- ^ 山際 1985, pp. 55, 59.
- ^ 江夏 & 松永 2015, p. 187.
- ^ 山際 1985, p. 44.
- ^ 江夏 & 松永 2015, p. 188.
- ^ “NHK特集「スポーツドキュメント 江夏の21球」”. NHK. 2021年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月23日閲覧。
- ^ 織田 2002, p. 66.
- ^ 二宮 2012, p. 18.
- ^ 上田雅昭 (2013年12月8日). “【プロ野球三国志 時代を生きた男たち】 佐々木恭介(近鉄)(8) 79年日本S江夏の21球 悪魔の囁き…1球見逃しから悪夢の結末 シリーズ後も地獄『外出られず、犯罪者の気分』 ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 6
- ^ 織田 2002, p. 71.
- ^ 二宮 2012, p. 85.
- ^ 佐藤正行 (2018年9月4日). “ヤクルト初の日本一、勇者のサブマリンの告白”. 週刊ベースボール 2022年11月5日閲覧。
- ^ 二宮 2012, pp. 20–21.
- ^ 二宮 2012, pp. 27–28.
- ^ 織田 2002, p. 72.
- ^ 二宮 2012, p. 14.
- ^ 佐野 2009, p. 197.
- ^ 【魚拓】退場歴ゼロも私生活で大乱闘「助けに入った仰木(彬)さんの浴衣の帯が…」結婚式場で何が? それでも栗橋茂が“近鉄の初優勝”に必要だったワケ(4/4) - プロ野球...
- ^ 水沼 2009, pp. 138–139.
- ^ 織田 2002, p. 74.
- ^ 二宮 2012, p. 21.
- ^ NHK特集での石渡自身のコメントより。
- ^ 江夏豊 (2017年12月26日). “江夏豊(25)21球 無死満塁、奇跡の脱出劇 日本シリーズ決戦で「最高傑作」”. 日本経済新聞 2022年11月5日閲覧。
- ^ 佐野 2009, p. 195.
- ^ 水沼 2009, p. 142.
- ^ 水沼 2009, pp. 142–143.
- ^ 水沼 2009, pp. 145–146.
- ^ 織田 2002, pp. 78–79.
- ^ 水沼 2009, p. 144.
- ^ 2008年2月14日、日本経済新聞朝刊
- ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号 pp.24-25「江夏の21球は本当だったんだと強烈な印象を受けた 伊東勤が語る最高峰の投球術」
- ^ 江夏豊; 伊東勤(インタビュー)「江夏豊×伊東勤(千葉ロッテマリーンズ)「なんでこんなに勝ってるんだ?」「それはですね……」」『週刊プレイボーイ』、1頁、2013年7月8日。 オリジナルの2013年8月15日時点におけるアーカイブ 。2022年11月5日閲覧。
- ^ 水沼 2009, p. 139.
- ^ 織田 2002, pp. 76–78.
- ^ 織田 2002, pp. 75–76.
- ^ 工藤健策『名将たちはなぜ失敗したか』草思社、2003年5月20日。ISBN 978-4794212146。
- ^ 水沼 2009, pp. 139–140.
- ^ 澤宮優『プロ野球残侠伝 サムライ達のいる風景』パロル舎、2009年4月1日。ISBN 978-4894190832。
- ^ 安藤統男 (2021年7月15日). “江夏豊、田淵幸一バッテリーと長嶋茂雄さんの因縁…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<14>”. スポーツ報知. 報知新聞社. 2021年7月15日閲覧。
江夏の21球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:34 UTC 版)
1979年、ヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪スタヂアムで行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。 なお、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表無死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーだったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。その時、三塁走者だった福本豊は、「素人(山内)が、江夏を打てるわけないから」と本盗をしようとベンチを見たところ、「オヤジ(西本)に睨みつけられたため止めた。」と語っている。また、山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた。
※この「江夏の21球」の解説は、「西本幸雄」の解説の一部です。
「江夏の21球」を含む「西本幸雄」の記事については、「西本幸雄」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 江夏の21球のページへのリンク