オリックス・ブルーウェーブ監督時代
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「伊原春樹」の記事における「オリックス・ブルーウェーブ監督時代」の解説
西武監督退任後の2003年10月14日にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約 + オプション1年)。2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待された。 しかし、2004年は負けが込むにつれ、選手やコーチとの間に軋轢が生じ、チームは最下位に終わる。また、再編問題・大阪近鉄バファローズとの合併のあおりを受け、契約年数を残して9月28日にわずか1年で退任した。
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オリックス・ブルーウェーブ監督時代
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「仰木彬」の記事における「オリックス・ブルーウェーブ監督時代」の解説
1993年の1年間、朝日放送(ABC)・九州朝日放送(KBC)野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務めた。 1994年、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任した。オリックスでは、二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、前任の土井正三監督時代から遊撃手として期待されながらイップスに陥っていた田口壮を、外野手として起用し成功させるなど、土井時代に停滞していた才能を次々に開花させ、「猫の目打線」と呼ばれた日替わり打線を中心として特徴的な采配を振るい、就任1年目は2位に浮上させた。 1995年、阪神・淡路大震災が発生。神戸市に本拠地を置くオリックスは、一時は試合開催さえ危ぶまれた状態から、『がんばろうKOBE』を合言葉に、オリックスとして初のリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは野村克也率いるヤクルトスワローズと対戦するが、1勝4敗で敗退した。 翌1996年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと対戦。4勝1敗で巨人を下し、監督として初の日本一に輝いた。この年の大晦日に行われた第47回NHK紅白歌合戦では審査員を務めた。 その後リーグ優勝を果たすことはなかったが、1999年まで6年連続でAクラスを維持(近鉄監督時代を含めると11年連続)し続けた。2000年は球団名がオリックスになってから初めてBクラスに転落し4位に終わり、オフにはイチローがメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍した。 ユニフォームのデザインが変わった2001年も、一時は上昇するかに思えたが中盤に失速し、2年連続Bクラスとなる4位でシーズンを終え、この年限りで監督を退任した。なお、近鉄のコーチ時代はヘッドコーチ昇格まで、三塁ベースコーチを担当していたが、ブルーウェーブでの一次政権時、チームを活気付けるため、開幕からの短期間、最後の1年間は140試合を通して、三塁コーチャーズボックスに自ら立って、陣頭指揮を執っていた。 監督退任後は阪神タイガースの次期監督として有力視されていたが、結局久万俊二郎オーナーの意向により有耶無耶となった。
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