オリックス入団へとは? わかりやすく解説

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オリックス入団へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:28 UTC 版)

清原和博」の記事における「オリックス入団へ」の解説

巨人から戦力外通告受けたシーズン終了後ある日オリックス監督辞任したばかりの仰木彬から電話があり、「大阪帰って来い。お前の最後花道は俺が作ってやる」との口説き文句言われるなど、何度も説得されオリックス入団決意した仰木近鉄監督1年目だった1988年10.19死闘の末西武との優勝争い敗れその後清原擁する西武中日との日本シリーズ制し清原日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄選手皆さん顔向けできます」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんだ」と心を打たれ以来ことあるごとに清原声を掛けていた。 直後仰木肺癌による呼吸不全他界したが、なおも清原仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。しかし、オリックス入団決断仰木死去後下されたため、「他球団からのオファー無かったことを確認してからオリックス入り決めたではないか」との批判なされたが、これについては本人は「入団決意していたが、膝の具合をみて自分戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木近鉄との球団合併前年ブルーウェーブ時代2004年オフにも熱心に清原勧誘し巨人球団代表らと直接会ってトレード交渉をしていた。 背番号巨人時代引き続き「5」(当初西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団中村紀洋着けた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチーム勝利貢献したい」と新たな決意語った当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。 2006年開幕前に球団吉本興業業務提携結んでいたことから、中村と共に吉本新喜劇にも出演したシーズンでは開幕後しばらくは清原持ち味であるセンターからライト方向へのヒット四球目立った5月21日の対阪神戦代打出場し満塁で中前適時打放って史上8人目通算1500打点達成5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打三浦大輔から右翼席に放ち史上12人目4000塁打達成。翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打マーク・クルーンから放ってチーム勝利導いた。なお、このサヨナラ本塁打野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ7月23日オールスターゲーム第2戦では8回二死走者なしの場面で代打として出場し藤川球児対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録狙ったが、空振り三振倒れている。8月29日の対西武戦長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打放つ。この本塁打21年連続2本塁打達成し通算サヨナラ本塁打12本)及び通算サヨナラ安打20本)でプロ野球歴代単独トップ立った9月2日ロッテ戦初回清水直行から11号3点本塁打放つが、2007年一軍出場できず、2008年現役最終年2年ぶりに一軍出場した本塁打打てなかったため、これが現役最後の本塁打となったこの年前述サヨナラ本塁打など記憶に残る活躍もあり、本塁打数は11本と中村紀洋に次ぐチーム2位本塁打数だが、中村清原故障離脱繰り返しチーム大きく貢献しているとはいえず、中村合わせて23本の本塁打しか打て67試合出場打率も.222と低迷しチーム順位も5位と下がった。 このシーズン死球受けた後日死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンド走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復宣言したともとれる発言したため問題になった2007年キャンプ中に左膝を痛めて離脱し2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰報道されたこともあったが回復具合思わしくなく、7月6日神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年プロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わったその後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張り見てたらね、桑田こんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれたことに感謝している」と語っている。12月10日契約更改行い野球協約による減額制限40%)を上回る45%・9000ダウン1億1000万円の単年契約でサインした2008年前年の手術の影響二軍調整続いたため、同年から始まったビッグボーイズ打線」のレギュラー務めることはできなかったが、7月31日に532日ぶりに一軍合流した。しかし、8月2日記者会見開き、「こんな状態なので、来年グラウンド立てないと思う」と話し同年限りでの現役引退事実上表明した。この1日に、清原関連球団グッズ5000万円売り上げた。これはオリックス選手1年分の売り上げ相当するという。8月3日福岡ソフトバンクホークス戦で7回に代打695日ぶりに出場したが、大隣憲司前に空振り三振翌日の同戦でも再び代打出場し三瀬幸司ストレートセンター前に打ち復帰後初のヒット打った8月18日西武ドームでの対西武戦終了後、「現役選手として最後誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられ嬉しかった」と語り同年限りでの現役引退決めていることを明らかにした。9月29日プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの西武とのカード最終戦終了後グラウンド出てライトスタンドの西武ファン清原コール応えた後、オリックス西武両軍選手清原胴上げするというセレモニーが行われ、渡辺久信からも花束贈呈された。また中島裕之ユニフォーム交換した10月1日京セラドーム大阪でのオリックスシーズン最終戦、対ソフトバンク戦清原引退試合となった通常前売り入場券試合1か月前、ただし、その日月曜日場合はその翌日発売開始されるの通例だが、オリックス特例として月曜日9月1日発売開始措置取った入場前売り券発売開始から1時間足らずで完売したイチロー下柳剛同年引退した桑田真澄PL学園野球部時代監督だった中村順司らが見守る中、4番指名打者先発出場野球関係者以外では、藤原紀香秋山成勲などが駆けつけていた。)。試合前に王貞治から花束贈呈もあり、王は清原対し生まれ変わったら、同じチームホームラン競争しよう」と伝えた外野スタンドから西武巨人オリックス在籍時代応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏一死一塁で4球目を空振り三振第3打席オリックス3-1リードした6回裏一死一塁で5球目を右中間適時二塁打打点1)。これが現役最後の安打打点となった8回裏一死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。対戦投手杉内俊哉は4打席18全て直球投げた清原内にヘルメット脱いで一礼し空振りしボール記念球として、この試合球審務めた東利夫から清原手渡され清原はこのボールに『内へ 最高の球をありがと清原和博』とサインし内に贈った試合4-1オリックス勝利したウイニングボール完投勝利を記録した近藤一樹から清原手渡されたが、近藤がこの試合プロ入り初の2勝利規定投球回達成したことを知っていた清原は、このボールにもサイン入れて近藤贈り返している。試合終了後引退セレモニーでは、北川博敏と金本知憲から花束贈呈され長渕剛清原巨人時代から入場テーマ曲として使用していた「とんぼ」をアコースティック・ギター生演奏熱唱した。引退挨拶では自分所属した西武巨人オリックス及び各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木感謝の気持ち述べ最後に今日引退させて戴きます全国プロ野球ファン皆様23年間、応援どうもありがとうございました」と涙ながらに締めくくったその後場内を1周し、ホームベース上でオリックス選手たちによって胴上げが行われた。翌10月2日オリックス球団本人希望清原任意引退選手として申請し同日パシフィック野球連盟から公示された。オリックスこの年2位入りクライマックスシリーズ出場獲得したが、清原出場辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・第1ステージ(対北海道日本ハムファイターズ)では選手要望清原ユニフォームベンチ内に掲げられ清原本人ゲストルームから声援送った

※この「オリックス入団へ」の解説は、「清原和博」の解説の一部です。
「オリックス入団へ」を含む「清原和博」の記事については、「清原和博」の概要を参照ください。

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