オリックス監督時代
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2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ時代の球団OBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。阪急・オリックス球団におけるOB監督は1980年シーズンの梶本隆夫以来実に30年ぶりである。 2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。 2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちを収め、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊やアーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた。 2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表。事実上の「解任」となった。
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オリックス監督時代
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監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督ができなかった二軍視察も積極的におこなう。二軍からは小瀬浩之や森山周らを昇格させ梶本達哉を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をした。一方でタフィ・ローズとアレックス・カブレラの両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、その結果は二人合わせて76本塁打、222打点の活躍と待遇に応えるものであった。また同年限りで引退した清原和博についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配った。 就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことで8月2日には監督に昇格。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌2009年も続けて指揮を執ることが発表される。チームは9月上旬に2位に浮上してそのままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7でクライマックスシリーズ進出を決める。同シリーズは第1ステージで日本ハムと対戦し、同年15勝を挙げた小松聖を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退。第1戦に近藤一樹を先発させたことについて「悔いはないが、投手交代をもう少し早くすべきだった」と述べている。 2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった野茂英雄を臨時投手コーチとして招聘。また2009年は前年からの清川栄治、赤堀元之に加え、現役時代から長年の付き合いがある佐々木修を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制とする。しかし、同年のチーム防御率は12球団ワーストと低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、ラロッカ、フェルナンデス)の死球などで全員骨折・長期離脱するなどで長打力も不振。結局6月に4勝14敗、勝率.222と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかめる事が出来ず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で球団本部長の中村勝広(9月30日限り)とともに解任される。
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オリックス監督時代
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2013年からオリックスの監督へ正式に就任した。記者会見では「悔しい思いを二度と味わわない。そして何よりもファンの方にも味わわす訳にはいかないという気持ちを一つに纏め、プロフェッショナルな意識を持っていきたい。」と意気込みを語った。 1年目の2013年7月28日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)で、李大浩の空振り三振をめぐる抗議時の球審の西本欣司への暴力行為で、李と共に退場処分となった(李は侮辱行為)。森脇にとっては初の退場処分であり、監督代行はヘッドコーチの福良淳一が務めた。同年は5位に終わるが、2014年は開幕から上位を走ると、前半戦を首位でターンし、8月24日には監督契約を2016年のシーズン終了まで延長することが球団から発表された。公式戦では終盤にソフトバンクに逆転され、首位とゲーム差なしの2位で終了した。2008年以来6年ぶりにクライマックスシリーズへ進出したが、1勝2敗でシーズン3位の北海道日本ハムファイターズに敗れた。 2015年は中島裕之、小谷野栄一、トニ・ブランコ、ブライアン・バリントンを獲得による大型補強でシーズンに臨んだが4人とも故障で離脱する。最下位に低迷し、19勝34敗1分で迎えた開幕54試合目の広島戦(5月31日・京セラドーム)に敗れ、自力でのリーグ優勝の可能性が消滅した。6月2日には成績不振を理由に休養し、ヘッドコーチの福良が監督代行に就任することが球団から発表された。8月31日付で監督職を正式に退任し、2015年9月1日付で仰木彬・中村勝広に次ぐ球団3人目のシニアアドバイザーに就任した。
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オリックス監督時代
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「テリー・コリンズ (野球)」の記事における「オリックス監督時代」の解説
2006年10月6日、オリックス・バファローズ監督に就任。背番号はエンゼルス監督時代にも背負った「1」。チームとしては2003年途中のレオン・リー以来の外国人監督となる。2007年4月8日の対西武戦(スカイマークスタジアム)で、トム・デイビーに対するボークの判定に抗議、東利夫球審への暴言により両リーグ通じたシーズン退場第1号となった。チームは4月下旬から5月にかけて17試合で1勝16敗を喫するなど低迷し、最下位に終わる。 2008年は開幕カードを2勝1敗と勝ち越すもその後は低迷し、5月21日の試合後に突如監督辞任を表明した。オリックスはコリンズが監督辞任後に大石大二郎一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチを監督代行に抜擢し、8月1日には正式に監督に就任するとチームを9年ぶりAクラスとなる2位へと導いた。 千葉ロッテマリーンズで監督を務めていたボビー・バレンタインとは交友があり、奇しくも、オリックス退団後にはかつてバレンタインが務めたメッツの監督に就任することとなる。また、現在独身であるが、結婚・離婚ともに経験していることをコリンズ本人が認めているが、来日直後から吉本興業のタレントシルクとはたびたび食事をともにするなどの交流があり、そこから交際説や「結婚秒読み」などと報じられていた。 タフィ・ローズ、グレッグ・ラロッカ、アレックス・カブレラという実績ある大砲3人組に対し、コリンズ自らが「ビッグ・ボーイズ」(ビッグボーイズ打線)と命名した。
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