采配の特徴
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阪急監督時代は福本豊・簑田浩二・松永浩美・弓岡敬二郎などの走れる人材に恵まれたこともあり、盗塁策を積極的に採用。大熊忠義や福良淳一などのバント戦術を駆使して塁を進めてから加藤秀司やボビー・マルカーノ、ブーマー・ウェルズなどの一振りで得点するケースが多かった。その一方でオリックス監督時代はブルーサンダー打線、日本ハム監督時代はビッグバン打線を作り上げるなど攻撃力主体のチームを作ることにも長けており、阪急・オリックスではほぼ毎年のようにAクラス入りし、日本ハムでも主力選手の故障・不振などがありながらも4位・2位・4位・2位・5位とまずまずの成績を残し、一度も最下位に転落しなかった。 上田が阪急監督在任中、1970年代後半に編み出した走塁戦術に「ギャンブルスタート」がある。これは、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる(投球の高さがストライクゾーンにきたら三塁走者がスタートを切る)「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分けるというもので、上田はこの作戦を実行して貴重な一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった。上田阪急のレギュラーであった大熊忠義は「監督も一、三塁でよくエンドランのサインを出した。満塁の場面でもあったから、さすがにこっちはサイン間違いかなと思ったくらいです。1点を取る上田さんの野球です」と語っている。同じく大橋穣によれば、上田はこうした走塁作戦を実行する際に、走者に判断の責任を押し付けず、自らがはっきりとサインを出して責任を取り、失敗した時には「悪かった。俺がサインを出すカウントを間違えた」と選手に詫びたという。大橋は上田を「采配が失敗だったと思えば潔く認める、信頼できる指揮官だった」と評している。 1982年8月12日には、同年から指名打者に偵察メンバーを使う事が禁止されたことを忘れ、指名打者の偵察メンバーに投手の山沖之彦を起用したところ運悪く満塁のチャンスで打順が回り、山沖が三振に終わったという事もあった。
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采配の特徴
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試合中に吐く「何とかせい」は有名で、キャプテンが指揮を任されることが多かった。そのため、明大野球部キャプテンは、学生野球の中でも一目置かれる存在であった。 リーグ戦でもただ一度の敗戦も許さない性格。敗戦すればベンチ裏や合宿所にてレギュラー選手を対象に鉄拳制裁することが多く、選手は「5発、10発、15発、”脳天が痺れるような”御大の鉄拳が飛んでくる」と腹を括っていた。 島岡野球とは、飛田流の精神野球を基盤にした「ミスのない野球」で、味方のエラー、自軍投手による四球、サイン見落としなどを極端なまでに嫌い抜いた。 短気な性格から、エラーをした選手、打てなかった選手はすぐ交替させた。そのためスコアブックが一杯になってしまうので「記者泣かせの監督」と呼ばれていた。 勝負に非情な性格。スクイズ成功で得点後、実は打者の指にボールが当たっており、本来はストライク判定で打ち直し(無得点)であった事実が主審に気づかれていないと分かると、「手当をしないで一塁上に戻れ。それから次の守備にいったん付け。『練習のゴロで突き指した』と言ってそこで交代するんだ」と、右人差し指が折れ血が吹き出し、骨が出ている選手を塁上に戻し、この1点で勝利したこともある。(1953年5月18日、対早稲田3回戦、3回裏、明治4番・渡辺礼次郎に対して) 練習スタイルは紅白戦が多く、島岡が必ず主審を務めた。「至近距離で2ストライクに追い込まれた時の打者の顔色や呼吸を観察する」ためだと述べている。
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