オリックス・バファローズ監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:18 UTC 版)
「仰木彬」の記事における「オリックス・バファローズ監督時代」の解説
オリックス退団後は、2002年から2004年まで再度ABC野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務めた。 2004年に野球殿堂入りし、記念パーティーでのスピーチで「今日のパーティーでございますが、これは私の生前葬だと思っております」と語った。この時点で肺がんが発覚しており、闘病を続けていたが、仰木は生前がんに侵されて闘病している事実を公にすることはなかった。一部の球界関係者はその事実を知っていたが、仰木に懇願されて内密にしていたという。 2004年10月12日、かつて自身が率いたオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併によって誕生した新生「オリックス・バファローズ」から監督就任要請を受け、70歳で現場復帰したが、当時の歴代最高齢での監督就任だった(翌年に野村克也が更新)。闘病を続けていた肺がんは完治していなかったが、「グラウンドで倒れたら本望」と、病をおして監督に就任しており、新井宏昌や松山秀明らが、仰木の体調不良を押しての決意に打たれてコーチングスタッフとして加入した。 グラウンドでは病状を隠し気丈に振舞っていたものの、過労による居眠りや、ベンチに腰掛けたまま動かない場面も目立ち、特に後半戦の西武ドームでの試合では、球場の階段を自力で上ることができず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りするほど、体調を崩している様子が周囲から確認されていた。2005年シーズンは4位となった。 西武ドームでの最終戦後、レフトのオリックスファンに2、3度頭を下げ「ありがとう」と口にし、そのままセンターバックスクリーン(大道具搬入口)から外付けのハイヤーに乗り込んだ。 球団から監督続投要請を受けるも、高齢や健康状態を理由として、最終戦翌日の9月29日に記者会見を開き、監督退任を発表した。同時にオリックス球団シニア・アドバイザー(SA)への就任も発表している。
※この「オリックス・バファローズ監督時代」の解説は、「仰木彬」の解説の一部です。
「オリックス・バファローズ監督時代」を含む「仰木彬」の記事については、「仰木彬」の概要を参照ください。
- オリックス・バファローズ監督時代のページへのリンク