阪神タイガース監督
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NHKの野球解説者に決まっていたが、1998年10月25日に三顧の礼をもって阪神タイガースの監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。久万俊二郎から野村に対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」と熱く語ったという。当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである。八木沢とはロッテ時代の1978年にバッテリー組んでおり、バッテリーコーチは黒田正宏が就任した。1985年の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見では球団側から「野村監督様」と紹介されるなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。 前任の吉田義男が「今のメンバーで核になるような選手はいまへんわ。脇役ばっかりで戦っているようなもんですわ。」と言い残した戦力をそのまま引き継いだ。 「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は落語家の月亭八方。総売上げ数は27個)。 オールスター戦を挟んで9連敗、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった。 また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。 1999年のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。 ダレル・メイが「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言。文書で野村批判のビラを自ら配る。メイはシーズン終了を待たずに解雇された。 なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一・二塁で、阪神・湯舟敏郎が送りバント。一塁塁審の小林毅二は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・馬場敏史の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し、野村の野球人生で初めての退場処分となった。 2000年は、一軍守備走塁総合コーチに西武時代の同僚でもあった伊原春樹を招き、伊原が西武一軍守備走塁コーチ時代に担当していた守備、走塁の作戦面を任せた。4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も川尻哲郎が復調の気配を見せたぐらいだった。伊原はジェイソン・ハートキーの盗塁失敗を巡り野村と対立し、1年で退団。2001年は、4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。入団4年目の井川慶がチェンジアップを自分のものにして9勝を挙げた。野村が招聘した松井・八木沢・柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)。 2001年10月19日に野村の2002年シーズンの監督留任が発表され、ヘッドコーチに木戸克彦、投手コーチに佐藤義則、打撃コーチに和田豊を据える、翌シーズンの首脳陣も公表されていた。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された12月5日に辞任を発表した。なお著書「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったという。 結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。
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