阪神タイガース時代
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2020年は二軍の安芸キャンプに参加し、その後も二軍で実戦を積んだ。同年の一軍登板はなし。ウエスタン・リーグでは9試合に登板し、2勝4敗、防御率6.00を記録した。 2021年、プロ初登板となった5月28日の埼玉西武ライオンズ戦(メットライフドーム)で2/3回を1安打無失点に抑えると、5月30日の西武戦(メットライフ)で1回2/3を2安打無失点に抑えプロ初勝利を挙げた。6・7月は計15イニングの登板で自責点3に抑えるなど抜群の安定感を見せ、オリンピックによる中断を挟んだ後半戦からは勝ちパターンとして起用されるようになった。その後は痛打される場面も目立つようになったが、シーズン終盤の9月には計9イニングを1失点に抑えるなど盛り返し、最後まで登録を抹消されることなく一軍に帯同し続けた。 2022年、3月にわき腹を痛める。
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阪神タイガース時代
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2月10日、小林は大阪市内で記者会見を開き、阪神タイガースへの入団を発表。背番号は小林の強い要望により、巨人時代と同じ「19」に決まった。会見を終えた小林はすぐさま阪神のキャンプ地である高知県安芸市へ向かった。地元のラジオ局は小林の到着を臨時ニュースとして報道し、翌2月11日には「悲劇のヒーロー」を見るために当時の安芸市の人口の半分にあたる1万2000人がキャンプ地の球場に詰めかけた。当時阪神の主力選手だった掛布雅之によると、キャンプでの最初のミーティングの際、小林は挨拶で「巨人には伝統があるけれど阪神には伝統がない」と発言したという。掛布はそれに対して「悔しかった」「なに言ってんだ」という印象を抱いたが、後年になって小林の真意は「勝利への執着心の差」を指摘したものではないかと述べている。 小林は巨人への未練に苛まれながらも「ジャイアンツだけには負けたくない」と思うようになり、巨人戦に合わせて自分のローテーションを組むよう、監督のドン・ブレイザーに直訴。開幕2戦目となる4月10日の甲子園球場での試合を皮切りに、巨人戦8連勝を飾り「巨人のエースの怖さ」をまざまざと見せ付けた。トレード前、小林には「自分はジャイアンツに必要なピッチャーなんだ」という自負があったが、江川との交換要員となったことで「小林を出してでも江川を獲りたい」、「小林よりも江川のほうが戦力になる」と球団側が判断したのだと考え、プライドを大きく傷つけられていた。巨人戦に登板した時の小林は普段見せるクールな態度を捨ててベンチ裏で声を出して気合を入れるなど、闘志をむき出しにした。また、巨人戦に登板する日はピリピリした雰囲気を漂わせ、新聞記者は球場入りした姿を見ただけで小林がその日の試合に先発することがわかったという。この年、小林は22勝、防御率2.89という成績を挙げ、2年ぶりに沢村賞(史上2人目の複数球団での沢村賞達成)及びベストナインを獲得した。掛布雅之は、小林が移籍初年にこの成績を残したことについて「巨人への意地のようなものを示した」と述べ、「生え抜き」で4番打者の自分に対して「こういう人に負けられない」というプレッシャーになったと述懐しているしかし小林自身は後に、この年のシーズンを以下のように否定的に振り返っている。 あの年に俺がやったことは野球選手として褒められたことじゃないんだよ。自分のためだけの野球をやっていたから。あんな事件があって、トレードで阪神に移って、悔しくてね。だから、『俺は生きるぞ、負けてなんかいないぞ』って主張したかった…それだけの野球。そんな野球は全然、駄目でしょ。チームより自分が先に立っていた…そんなのは、あざといだけの野球だよ。なのにファンもマスコミも俺が巨人に勝つたびに大騒ぎをする。世の中が、そんな風に動くのが嫌だった。『あんたら馬鹿か』と思いながら、それでも、俺は巨人に負けたくないと思って必死に投げていたんだ。結局、世間に踊らされていたんだよ、あの年の俺は。 — 近藤2010、162-163頁。 移籍2年目の1980年8月16日、後楽園球場で行われた巨人戦で初めて江川と投げ合った。3失点で完投した江川に対し小林は5回4失点で降板、試合は巨人が勝利し江川が勝利投手となった。試合後、江川が興奮した様子を見せたのに対し、小林は以下のようにコメントした。 こういうことはね、早く終わったほうがいいんだよ。大体、ふたりの投手が投げ合っただけじゃない。それなのにカメラにずっと追いかけられて、無駄な写真もいっぱい撮られて晒し者にされたような気分だったからね。……まぁ、僕の野球人生における煩わしいことが、これで終わった。あの子(江川)が勝ってよかったのかもしれない。負けていれば、何を言われるかわからないしね。 — 近藤2010、166-167頁。 小林は「去年ぶつかっていたら、こっちが勝っていたね。でも何か、巨人に対する意識が自分の中で変わりすぎちゃったよ」とも語った。近藤隆夫によると実際に小林はこの頃から、巨人戦の前であっても以前のようにピリピリした雰囲気を漂わせなくなった。近藤は「小林が心底から燃えてマウンドに立つことができたのは実際のところ、移籍1年目の79年だけだったのかもしれない」と述べている。1980年以降も小林は毎年2桁の勝利数を挙げたが、巨人戦では5勝15敗と負け越している。小林によると、1980年以降巨人で若手選手が台頭して「同じジャイアンツのユニフォームを着ている別のチーム」になったことも、当初の「みなぎるような気持ち」が薄れることにつながったという。 1982年離婚。最初の妻とは江川事件の前夜に大喧嘩し、喧騒の中で関係修復の機会もないままであった。 1982年シーズン終了後、小林は「来シーズン、15勝できなかったらユニフォームを脱ぎます」と宣言した。この発言は次のシーズンへ向けた意気込みの表れと受け取られたが、小林は本当に引退を意識していた。原因の一つは右肘にあった。小林の右肘は1978年頃からまっすぐに伸ばすことができなくなり、82年には内側に強く曲げることができなくなった。さらに81年頃から下半身の踏ん張りが利かなくなり、肩の力に頼って全力投球を続けたことで右肘の状態はさらに悪化した。また、年俸が上がらず巨人時代に経験した「チームとして勝つための野球」も経験できない中、江川事件以来ついて回る「悲劇のヒーロー」というイメージにも嫌気がさし、「好きな野球をやっているんだ」という感覚、野球に対する情熱を失いつつあった。また、この頃になると田淵幸一の放出に象徴される阪神の選手に対する扱いの冷たさや昇給に消極的な姿勢にも嫌気が差すようになりかつてのチームメイトに「巨人に帰りたい」と漏らすようになっていたことがスポーツニッポンにて報道されている。1983年7月には、大阪・北新地に飲食店を開業するなど、引退後を見据えたビジネスにも乗り出していた。 1983年シーズン開幕後、小林は15勝できるかどうかが判明する前に引退を決意することになった。6月25日の中日ドラゴンズ戦で、それまで「カモ」にしていた中日の大島康徳に「自信を持って投げた」インコースのシュートをホームランされる。この時小林はプロ野球選手になってから初めて、「ガクッと膝が抜け落ちるような虚脱感」に襲われたという。直後の7月初めに、小林は当時日刊スポーツ記者だった井坂善行に「オレ、辞めるよ」と引退の意向を打ち明けている。その後も小林は大島に打ち込まれ、8月に引退を決意した。引退時の心境について、小林は以下のように語っている。 肩も肘もきつかったけど、騙し騙しやれば、次のシーズンも10勝はできたかもしれない。それに技巧派にスタイルを変えるという手もあったはずだと思う。でも自分が思い描いたボールが投げられなくなっているのに、投げ続けることにこだわろうとは思えなかったよ、あの時は。こんなことを言っても仕方がないけれど、もし、あのトレードがなくて、ジャイアンツに残っていたとしたら、もっと長く現役を続けていただろうね。ジャイアンツにいたら35歳ぐらいまで、いや投げれる間はユニフォームを着ていたんじゃないかな。結局、あのトレードから、人の評価に振り回される僕の人生が始まった。自分のやりたいように生きていなかったね。周りの評価ばかり気にして、そんな自分が嫌で、つかれて、もう野球から離れたかったんだと思う。だから引退を決めた時、自分の野球人生を振り返ろうともしなかったし、感傷に浸ることもなかった。 — 近藤2010、175頁。 引退の真の理由が右手の血行障害であったことを、小林はチームメイトの川藤幸三にだけ打ち明けていた。10月29日現役引退を表明した。
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阪神タイガース時代
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「ディエゴ・モレノ」の記事における「阪神タイガース時代」の解説
2017年12月11日に、NPBの阪神タイガースが、モレノとの入団契約で合意したことを発表した。背番号は48で、推定年俸5,700万円の1年契約。なお球団では、モレノの獲得と前後して、3人の外国人投手(エースのランディ・メッセンジャー、セットアッパーのマルコス・マテオ、クローザーのラファエル・ドリス)の残留を発表した。さらに、4番打者候補としてウィリン・ロサリオ、育成を目的に左腕投手の呂彦青とも新たに契約している。 2018年は、オープン戦4試合の救援登板で無失点をマークしたが、一軍で同時に登録できる投手を3人までに限っている外国人枠との兼ね合いで、公式戦の開幕を二軍で迎えた。しかし、マテオが母国に住む夫人の出産へ立ち会うことを理由に4月26日付で出場選手登録を抹消。一軍が4月28日以降に9連戦を予定していることを背景に、同日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)8回裏に一軍公式戦への初登板を果たした。その後も3試合に救援で登板したが、マテオの再来日を機に、5月8日付で登録を抹消。しかし、マテオが再来日後に右肩痛を発症したため、5月27日に再登録を果たした。シーズン終了後ウェイバー公示されたが、獲得を希望する球団はなく、10月31日付けで自由契約公示された。
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阪神タイガース時代
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「ロバート・ザラテ」の記事における「阪神タイガース時代」の解説
2010年オフ、リリーフ投手の強化を目指していた阪神が獲得に向け入団交渉を行い、10月29日に育成選手契約を結んだ。この時の背番号は「116」であった。 2011年は、2月のキャンプ中に左上腕二頭筋の軽度挫傷を負ったため、実戦登板は5月にずれ込んだ。7月頃には支配下選手登録内定という報道も出たが、結果的には見送られた。同年は、二軍のウエスタン・リーグで11試合に登板し、0勝0敗、防御率3.00であった。11月1日に育成選手契約を延長した。 2012年シーズンは、7月24日までにウエスタン・リーグで中継ぎ投手として21試合に登板し、23回を投げて防御率0.00(失点1・自責点0)と好成績を残した。この活躍もあって、7月24日、同じく育成選手の玉置隆と共に支配下選手登録された。背番号は「95」に決定し、阪神でこの背番号を着ける初めての現役選手となった。支配下登録から約2週間後の8月5日に安藤優也との入れ替わりで一軍登録され、同日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で、7回裏より2番手でプロ初登板。速球は154 km/hを記録したものの、四球や自身の失策も絡んで3失点(自責点2)を喫した。 2013年は抑えであった藤川球児がシカゴ・カブスへ移籍したため、新守護神候補として期待されていたが、前年10月に左肩肩峰下滑液包炎を発症。1月末の時点でキャッチボールを行うことができないなど、回復が予想以上に遅れた。5月30日にようやく中日ドラゴンズとの二軍戦で復帰。7月26日にブレイン・ボイヤーと入れ替わりで一軍昇格すると、同日の対横浜DeNAベイスターズ戦で復帰後初の一軍登板を果たし、1回を無失点に抑えたが、翌日の試合では2/3回を1安打2四球で1失点と乱れ、わずか2日で二軍降格となった。その後、今後の出場予定がなくなったため、シーズン中の9月5日に帰国した。12月2日に自由契約公示された。
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阪神タイガース時代
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「クリス・オクスプリング」の記事における「阪神タイガース時代」の解説
2006年開幕前の3月には、この年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のオーストラリア代表に選出されたが、同年に入団した阪神でのプレーに集中するためにウィリアムスとともに代表を辞退している。オープン戦の序盤こそ本調子ではなかったものの、徐々に調子を上げていき、見事開幕ローテーションを勝ち取った。しかし、立ち上がりが良くても4~5回あたりで突然炎上する悪癖があり、シーズン4勝に終わり、1シーズン限りで退団した。
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阪神タイガース時代
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1978年オフに田淵幸一、古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史、竹田和史とともに阪神に移籍することになる。本人は球団が西武ライオンズに売却されチームが福岡県から埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。当初、阪神へのトレードは真弓ではなく永射保で話が進んでおり、真弓は西武へ行く若手選手を集めた秋季練習にも参加していたが、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を望んだため、永射ではなく真弓になったという。トレードはテレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという。後に球団から正式にトレードを通告された時は、思わず「ありがとうございます」と言ってしまった程嬉しかったと後年振り返っている。(阪神に移籍する前の太平洋時代にチームメイトに誘われて後楽園球場の巨人対阪神戦を観戦していたことがあり、満員のファンの前でプレーをしてみたいと感じたことがあったという。ただ、後に西武ライオンズが常勝チームになった時、トレード相手の田淵やかつてのチームメイトの東尾修、大田卓司、永射らの活躍に複雑な心境になり、強くなったチームを羨ましく感じたとも言われている)。移籍後の背番号は7となった。 移籍1年目の1979年から、1番・遊撃手として定着。長打力のある1番打者として活躍し、同年5月20日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)ではサイクル安打を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った。 1980年は、中西太打撃コーチ(同シーズン途中から監督代行)の指導により、飛距離の出やすい細く軽いバットを使用するようになり、1番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する。 1981年は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌1982年には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした。 1983年には岡田彰布の故障に伴って7月12日対巨人戦から二塁手に転向し、若松勉に競り勝つ打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。残り10試合になった際に、首位打者のタイトルのために安藤統男監督から欠場を勧められるが、これを断固拒否し試合に出場した。 1984年も岡田が一時外野手にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。同年に、通算1000試合出場と通算1000本安打を達成している。 1985年にこの年就任した吉田義男監督の指示で岡田と入れ替わる形で外野手(主に右翼手)に転向した。真弓はライオンズ時代の1977年は主に外野手で出場していたので経験済みのポジションであった。外野手はライバルが大型選手や外国人選手であることが多く、意識して長打を狙うようになったと後年振り返っている。同年6月9日の対横浜大洋ホエールズ戦(札幌円山球場)でセカンドランナーだった真弓はかつてのチームメイトの若菜と本塁で交錯し、左肋骨不全骨折で1か月弱戦線を離脱するものの、1番打者として、打率.322(リーグ5位)、自己最多の34本塁打、84打点の好成績でチームのリーグ優勝に貢献、外野手のベストナインにも選出された(この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった)。日本シリーズでは奇しくも古巣ライオンズとの対戦になったが(かつてのチームメイトの東尾と対戦もしていた)、シリーズでもペナントレースの勢いをそのままに打率.360、2本塁打と活躍、2リーグ分裂後初めての日本一に貢献をして優秀選手賞にも選ばれた。 1986年は、7月6日の対巨人戦(甲子園)で、水野雄仁から自身2回目の5試合連続本塁打を記録。同本塁打は、阪神球団通算4500本目の本塁打であった。同年は、2年連続の打率3割を記録、本塁打も28本放った。このシーズンの掛布雅之故障離脱中は真弓が三塁手に回っている。 1987年は、10月13日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)で、荒木大輔から通算41本目(セ・リーグでは38本目)の初回先頭打者本塁打を記録。同記録は歴代2位で、セ・リーグのみの記録としてはリーグ最多である。 1988年は、自身2度目の全試合出場を果たす。また同年には、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立している。 1989年7月23日の対巨人戦(甲子園)で、桑田真澄から本塁打を放ち通算250本塁打を達成するも、12年間続けていた100試合出場が途切れる。 1992年以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心の出場となった。同年には、代打満塁本塁打を放つなど活躍し、チーム唯一のファン投票でのオールスター出場を果たす。また、通算3000塁打も達成している。 1994年には代打の切り札として、代打逆転満塁本塁打を放つなど活躍。代打で17安打・30打点と勝負強さを発揮した。同年の代打30打点は日本記録である。 1995年のシーズンでは、阪神・淡路大震災の影響で満足な自主トレーニングができず、その影響からかバッティングが不振を極めた。その結果二軍落ちも度々経験し、8月頭には足の肉離れで3度目の二軍落ち、そしてシーズン終盤フロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して現役にこだわった。しかし、交渉は決裂し、他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。真弓の引退により、福岡時代のライオンズに所属した選手が全員引退した。この年のシーズン開幕前の阪神・淡路大震災の影響で自宅には被害がなかったが甲子園・鳴尾浜球場までの移動が困難になったため原付バイクで通い、若手選手に交じって選手寮虎風荘に寝泊まりしていたことがあった。
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