盧溝橋事件をめぐる不拡大派と拡大派の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)
「多田駿」の記事における「盧溝橋事件をめぐる不拡大派と拡大派の対立」の解説
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が起きた。盧溝橋事件自体は「闇夜における犯人不明の射撃に端を発した小規模な紛争」に過ぎなかったが、結果的にこれが日中戦争の始まりとなった(当初の日本側呼称は北支事変。9月2日から支那事変へと変更)。 当時の参謀本部は閑院宮載仁親王参謀総長は皇族、今井清参謀次長は重病であったため、事実上のトップは石原完爾作戦部長であった。石原は事変について不拡大派であり、満州国の育成に専念して対ソ戦に備えるべきで、中国との戦争は長期消耗戦に陥ると主張していた。しかし、陸軍部内の多くは、この際中国に一撃を加えて懸案を解決すべきとの意見であった。 このような不拡大派と拡大派の対立は、7月11日の政府による内地三師団派兵声明が、動員決定と中止を三度繰り返したことに如実に現れているが、25日の廊坊事件、26日の広安門事件により、現地支那駐屯軍は総攻撃を決意、政府は派兵を最終決定し、事態は拡大の一途を辿った。
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