盧溝橋事件と「現地解決方式」
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「宮崎工作」の記事における「盧溝橋事件と「現地解決方式」」の解説
「盧溝橋事件」も参照 1937年7月7日夜半、北平(北京)の南西約20キロメートルにある盧溝橋で日本軍(帝国陸軍支那駐屯軍)と中国軍が衝突する盧溝橋事件が起こった。翌7月8日、中国共産党は中国国民に対日全面抗戦を呼びかけ、一方、日本の陸軍参謀本部は、同日、事件が拡大することを防ぐため、現地軍に対し、進んで兵を用いることは避けよとの命令を発した。 7月9日には事実上の停戦状態になったものの、7月10日には蔣介石の南京国民政府が日本に対し抗議の意を表明した。事変の拡大に積極的であったのは、中国では共産党、日本では関東軍であった。 日本側は、これまで同様の事件が起こったときに用いられてきた「現地解決方式」(事件の解決を正規の外交交渉に委ねることはせず、現地軍が地方政権を相手に交渉して解決するやり方)によって処理しようとした。満洲事変後の塘沽協定(1933年5月)にしても藍衣社テロ事件後の梅津・何応欽協定(1935年6月)にしても、この手法を用いて解決が図られてきた。
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盧溝橋事件と「現地解決方式」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:01 UTC 版)
「船津和平工作」の記事における「盧溝橋事件と「現地解決方式」」の解説
「盧溝橋事件」も参照 1937年7月7日夜半、北平(北京)の南西約20キロメートルにある盧溝橋で日本軍(帝国陸軍支那駐屯軍)と中国軍が衝突する盧溝橋事件が起こった。翌7月8日、中国共産党は中国国民に対日全面抗戦を呼びかけ、一方、日本の陸軍参謀本部は、同日、事件が拡大することを防ぐため、現地軍に対し、進んで兵を用いることは避けよとの命令を発した。 7月9日には事実上の停戦状態になったものの、7月10日には蔣介石の南京国民政府が日本に対し抗議の意を表明した。事変の拡大に積極的であったのは、中国では共産党、日本では関東軍であった。 日本側は、これまで同様の事件が起こったときに用いられてきた「現地解決方式」(事件の解決を正規の外交交渉に委ねることはせず、現地軍が地方政権を相手に交渉して解決するやり方)によって処理しようとした。満洲事変後の塘沽協定(1933年5月)にしても藍衣社テロ事件後の梅津・何応欽協定(1935年6月)にしても、この手法を用いて解決が図られてきたのである。本来は偶発的な要素の強い盧溝橋事件にあっても同様の方式が採用され、日本軍の出先機関と冀察政務委員会(委員長宋哲元)および国民党第二九軍(軍長宋哲元)のあいだで交渉がなされた。日本側の停戦条件は軍中央の指示を受けたものであり、戦闘では中国側の被害の方が大きかったにもかかわらず、中国側の陳謝などが条件に盛り込まれた。その結果、7月11日には北平特務機関長の松井久太郎大佐と第二九軍副軍長の秦徳純とのあいだでいったん停戦協定が結ばれた。 しかし、日本政府はその日、事件が中国側の計画的な武力抗日活動であると非難し、この紛争を「北支事変」と称して内地・朝鮮・満洲からの増援軍の派遣を決定したのであった。陸軍参謀本部の石原完爾作戦部長は事変については不拡大派であり、増派については否定的見解をもっていたが、国民政府中央軍が中国大陸を北上中であるとの情報に接し、居留民と現地軍の安全のためには派兵やむなしとして、これに同意したのである。陸軍大臣の杉山元は、昭和天皇に対し、「事変は1か月くらいで片付く」という見通しを示したといわれる。その後、現地での停戦協定成立の報告が伝えられ、内地からの派兵は保留となったが、朝鮮・満洲からの増派は実行に移された。この決定は、逆に中国側をおおいに刺激した。 蔣介石が盧溝橋事件のことを聴いたのは江西省の盧山においてであった。蔣は何応欽に部隊の編制を急がせ、華北の要地への出動を命じ、さらに前線に向けて100個師団の部隊を用意するよう指示した。そして、共産党の周恩来と会談したのち、7月17日、同地で「我々は弱国である以上、もし最後の関頭に直面すれば、国家の生存を計る為全民族の生命を賭するだけのことである」で始まる「最後の関頭」演説をおこない、なおも和平の努力は継続するも、もしそれが叶わないのであれば死力を尽くして抗戦するほかないという決意を明らかにした。ただし、南京国民政府内部では、事変の拡大を望まず、できる限り早い停戦を求める声も多かった。 蔣介石は7月19日、(1)中国の主権と領土の不可侵、(2)河北省における行政組織の不当な変更の禁止、(3)国民政府の地方官吏の日本の要求による不変更、(4)第二九路軍は何ら制限を受けないことを骨子とする時局解決のための4条件を掲げ、日本が侵略行為をやめて4条件に合意するならば、交渉に応じる用意があることを示し、逆に日本が軍事行動をここで中止しなければ、勝算はなくとも日本に抗戦する覚悟であることを表明して、国民の奮起を求めた。そして、蔣介石政権は現地停戦協定は中央政府の承認を要すべきであるとの見解を示し、国家主権に違背する現地協定は無効であると宣言した。これは、従来日本側が採用してきた「現地解決方式」の明確な否定であり、ここにおいて、国民政府は満洲事変の轍を踏まない決意を表明していたのである。 7月20日、第1次近衛文麿内閣は閣議をひらき、3個師団の動員を決定した。ただし、早急な派兵は見合わせていた。ところが、7月25日になって北平・天津地域において日中両軍の軍事衝突が再発すると、27日、3個師団の増派が実行に移された。7月28日、日本軍が華北一帯で総攻撃を開始し、ついに戦争は全面化したのであった。翌7月29日、日本軍が天津を占領し、市内の南開大学は空爆と砲撃によって破壊しつくされた。 激しさを増したのは中国側も同じであった。7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍部隊が国民党軍から銃撃を受けたとされる廊坊事件が起こり、7月26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、城壁上の中国兵が日本軍に射撃を加える広安門事件が起こった。7月29日には、冀東防共自治政府の所在地であった河北省通州で日本の警備隊が北平に移動した不在時に、中国人の保安隊が反乱を起こし、日本人居留民約150人(資料によっては223人)を虐殺する通州事件が起こっている。 7月31日、蔣介石は和平は絶望的であり、徹底抗戦しかないことをあらためて表明したうえで、収監中の「救国七君子」を保釈した。これにより、それまで蔣介石の姿勢に懐疑的だった中国人の多くも蔣が抗日を決意したことを確信したのである。
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