盧泰愚政権の北方外交とは? わかりやすく解説

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盧泰愚政権の北方外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:47 UTC 版)

大韓民国の国際関係」の記事における「盧泰愚政権の北方外交」の解説

外交における盧泰愚政権5年間は、「北方外交」(北方政策)と呼ばれる外交政策通して一段と量的な面で、韓国外交先進国水準にまで引き上げ成果修めたこともあり、概ね成功だったという評価受けている。しかし、北方政策成功盧泰愚政権努力結果と言うより国内外における外交環境お膳立てによる部分大きかった、と評する声も多く聞かれる盧泰愚政権期に韓国の対共産圏外交は、朝鮮戦争以降共産圏諸国とは敵対的関係を形成した既存外交政策から新し転機迎えることとなった第五共和国までの北方外交は、殆ど足踏み状態にあり、交易通商分野間接的若しくは第三国介入させた形式些細な規模だったことと比較すれば第六共和国発足同時に北方政策加速されたことは、非常に望ましいことだった。 1988年7月7日に、盧泰愚大統領は「民族自尊繁栄のための大統領特別宣言」(7 ・7宣言)の中で、南北間に民族共同体関係を発展させて行くことなど 6項目原則宣言したうえで、社会主義国との関係改善意思明らかにした。盧は「朝鮮半島の平和を定着させる与件造成する為に北朝鮮アメリカ日本など我が友邦との関係を改善するのに協調する用意がある。また我々はソ連中国含めた社会主義諸国との関係改善追い求める」と表明したソ連はじめとする共産圏諸国1988年ソウルオリンピック参加実現したことが、これらの国々との本格的な外交関係樹立踏み切るきっかけとなった1988年8月にはハンガリー人民共和国常駐代表部設置協定締結し10月ブダペストに駐ハンガリー韓国代表部開設され、翌1989年2月国交樹立した。それを皮切りにその他の東欧諸国モンゴルとも国交樹立するようになり、1990年9月にはソ連国交樹立し、翌1991年9月には北朝鮮同時に国連加盟した1989年1月7日大喪の礼の際には、姜英勲国務総理政府特使として派遣した1992年8月には、盧泰愚韓国国家元首として初め中華人民共和国訪問し江沢民総書記楊尚昆国家主席らと会談国交樹立し同時に一つの中国論」に従ってそれまで友好関係にあった中華民国台湾)と国交断絶した同年ベトナム社会主義共和国とは大使外交関係樹立した。「北方外交」の成果は、 1970年代末中国における実用主義路線採択冷戦体制終焉と脱イデオロギー時代始まりソ連ペレストロイカとそれに誘発され東欧諸国政治・経済改革及び開放などの国際情勢の変化に、韓国における経済成長民主化宣言実現という国内情勢変化がかみ合った結果と言える。ただ、急変する情勢変化に国がもう少し早く向き合い、その主体政府政権与党止まらず情報開放国民的意思結集よるものだったら、と惜しむ声も聞かれる

※この「盧泰愚政権の北方外交」の解説は、「大韓民国の国際関係」の解説の一部です。
「盧泰愚政権の北方外交」を含む「大韓民国の国際関係」の記事については、「大韓民国の国際関係」の概要を参照ください。

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