盧溝橋事件と北支事変とは? わかりやすく解説

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盧溝橋事件と北支事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)

日中戦争」の記事における「盧溝橋事件と北支事変」の解説

詳細は「盧溝橋事件」を参照 1937年昭和12年7月7日当時北支駐屯していた日本軍夜間演習中に実弾二度発射された。翌日午前五時三十分、攻撃命令を受け、中国軍陣地対し攻撃前進して行ったその後中国国民党軍衝突し盧溝橋事件勃発した。この日本軍駐留していた豊台は、義和団の乱事後処理定めた北京議定書定められ駐留能地ではなく、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}法的根拠のない駐留だった[要出典]。当時この地区居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4,080フランス兵1,839、米兵1,227、英兵999イタリア384であり、日本人居留民17,000人、米欧居留民は計10338人であった7月8日蔣介石日記に「倭寇挑発に対して応戦すべき」と書き7月9日動員令を出し、四個師団戦闘機華北派遣した7月19日までに北支周辺30師団、総兵力20万人配備した7月11日日中現地同士停戦協定締結され松井-秦徳純協定)、中華民国側遺憾の意思を表明し責任者処分すること、盧溝橋付近に中国軍かわって保安隊駐留すること、事件藍衣社中国共産党など抗日団体指導したとみられるため今後取り締る、という内容停戦協定締結された。事態収拾向う動き見えたことから内地師団動員一時見合わせとなった日本政府不拡大方針と軍の増派同時に決定 一方、同7月11日午前会議近衛内閣関東軍独立混成第11旅団独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団北支派兵発令支那駐屯軍編入される近畿以西の全陸軍部隊除隊延期決定する同日重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官代え香月清司中将新司令官親補。また近衛内閣現地解決不拡大方針閣議決定、さらに「北支派兵に関する政府声明」を発表し事件を「北支事変」と名付け今回事件中国側計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権行使するために派兵増員)するとした。7月13日北平北京)の大紅門で日本軍トラック中国兵爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件発生国民政府対日武力行使決定 中国共産党7月15日国共合作による全面抗戦呼びかける蔣介石7月17日廬山談話会において、中華民国弱国であり戦争求めてならないが、やむをえない場合徹底抗戦する表明する中華民国政府7月19日国民党の第29軍代張自忠らが盧溝橋事件停戦協定細目実施申し出共産党策動徹底的に弾圧すること、排日職員取り締ること、排日団体撤去すること、排日運動排日教育取り締ることを日本誓約する 一方で盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着認めない日本側に通告した7月20日には中国軍37師部隊は再び盧溝橋付近日本軍攻撃した7月21日蔣介石南京戦会議大日本帝国に対して武力行使を行うという方針採択した7月23日南京幕僚長孫浜将軍北京保定の軍に対日戦闘を勧告した他方7月22日から中国当局抗日雑誌等禁止藍衣社などを弾圧した大日本帝国報告された。 日本軍総攻撃 中国軍北京天津電線切断作戦展開した1937年7月25日、郎坊駅で電線修理した大日本帝国軍休憩していると中国軍襲撃した(郎坊事件)。日本帝国軍は修理した電線天津本部連絡をとり、翌7月26日日本軍戦闘機中国人陣地爆撃し同地日本軍占領日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告行ったが、中国側応じなかった。 翌7月26日広安居留民保護駆けつけ日本帝国軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける(広安門事件)。 7月27日日本軍支那駐屯軍)は総攻撃実施決定した東京内閣内地師団動員下令第5師団第6師団第10師団動員派兵決定同日午後11時、南京政府日本側へ、北支当局日本軍守備隊協定に関する交渉日本申し出た総攻撃前にして住民逃すため香月軍司令官要請受けてJ.O.スタヂオ技術者として渡していた菱刈隆文北平上空から20万枚布告ビラ撒いた7月28日午前5時、日本軍支那駐屯軍北支攻撃開始中国軍5000余人戦死撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元秦徳純などは脱出した通州事件 7月29日には、日本同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊中国人部隊)が、抗日側に転じて日本軍特務機関日本人朝鮮人居留民に対して虐殺実施した通州事件発生同日同時刻に29路軍が天津日本人租界攻撃した。この通州事件日本軍民に暴支膺懲意識強く植え付けることとなる。 日本軍北平北京)・天津占領チャハル作戦 7月31日日本軍支那駐屯軍)、北平天津地区制圧日本軍7月末には北平天津地方制圧後、8月には河北省保定以北制圧実行移そうとしたが、河北省南部集結しつつある中国軍衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され代わりに行われた作戦8月9日より関東軍察哈爾省現在の内モンゴル自治区)とその周辺攻略開始したチャハル作戦。後に10月17日包頭占領し日本傀儡政権蒙古連盟自治政府樹立し張家口駐蒙軍置いた

※この「盧溝橋事件と北支事変」の解説は、「日中戦争」の解説の一部です。
「盧溝橋事件と北支事変」を含む「日中戦争」の記事については、「日中戦争」の概要を参照ください。

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