菱刈隆文
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菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年[1])は、日本の報道記者、実業家。
- ^ 諸説あるが、書籍倶知安町百年史 中巻 (1993, pp. 1044–1047)、倶知安町百年史 下巻 (1995, p. 326)、ニセコパウダーヒストリー (2011, p. 115)には「1974年(昭和49年)に62歳で急逝」という記述がある。
- ^ この記事の主な出典は、ブラッドリー (2001, p. 79)、井伏 (1998, pp. 212, 360)、茶園 (1995, pp. 159–162)「菱刈隆文訊問書」、蔡 (1986, p. 65)、田々宮 (1986, pp. 134–135)、中島 (1977, pp. 145, 171–173)および菱刈 (1969)。
- ^ a b c d e 井伏 1998, p. 360.
- ^ a b c d e 菱刈 1969, p. 168.
- ^ 菱刈 1969, p. 171-172.
- ^ 『家の光』産業組合中央会、1937年10月1日、25頁。
- ^ 菱刈 1969, pp. 168, 171.
- ^ a b 茶園 1995, p. 160.
- ^ ブラッドリー 2001, p. 79.
- ^ 井伏 1998, p. 212.
- ^ 田々宮(1986) 134-135頁。傍らにいた馬奈木敬信少将がとっさに「菱刈やめろ、杉田中佐参謀替われ」と命じ、杉田中佐の通訳によって交渉が軌道にのり、交替後いくばくもなく妥結したとされる(同)。
- ^ 菱刈自身は戦後、交渉にあたり英軍側が武装兵を置くことなど条件交渉をしようとしたため、まず降伏するのかしないのかを先に聞いてくれという趣旨で山下が菱刈に言ったもので、無条件降伏を迫ったわけではなかった、と説明している(菱刈 1969, p. 168)。
- ^ 中島 (1977, pp. 145, 171)。中島は2人から組織に勧誘されたが、考え方が合わなかったため工作には加わらず、徴員の任期満了により帰国した(中島 1977, pp. 173)
- ^ 菱刈 (1969, pp. 172–173)。菱刈は1年半ほどでこの任務を離れ、この情報工作はその後数ヶ月してから「駄目になったよう」で、その後のことはわからない、という(同)。
- ^ 茶園 1995, pp. 160–161.
- ^ 蔡 1986, p. 65.
- ^ 菱刈 1969, p. 172.
- ^ 茶園 1995, p. 159.
- ^ 倶知安町百年史 中巻 1993, pp. 1044–1047.
- ^ 倶知安町百年史 下巻 1995, p. 326.
- ^ ニセコパウダーヒストリー 2011, p. 115.
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