第1の哨戒 1945年1月 - 3月
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「パイパー (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1945年1月 - 3月」の解説
1945年1月25日、パイパーは最初の哨戒でボーフィン (USS Bowfin, SS-287)、ポンフレット (USS Pomfret, SS-391)、スターレット (USS Sterlet, SS-392)、トレパン (USS Trepang, SS-412) とウルフパック「マックズ・モップス Mac's Mops」を構成し、小笠原諸島方面に向かった。この哨戒では、この方面にある特設監視艇群を蹴散らして来るべき硫黄島の戦いを支援する第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)やB-29などへの手助けをする任務が与えられており、この任務にはもう一つのウルフパック、ラガート (USS Lagarto, SS-371)、ハダック (USS Haddock, SS-231)、セネット (USS Sennet, SS-408) の「ラタズ・ランサーズ Latta’s Lancers」も従事していた。「マックズ・モップス」はサイパン島に寄港の後、2月10日に硫黄島近海の担当海域に到着。2月13日までの最初の3日間は何も発見できなかった。パイパーは3月24日までの間、本州南方でB-29への支援と監視艇探索の任務を交互に実施。2月25日夜、パイパーは北緯34度06分 東経138度28分 / 北緯34.100度 東経138.467度 / 34.100; 138.467の地点で2隻の船舶を発見し、2,000トン級の船を浮上雷撃により撃沈したと判断した。しかし、実際に撃沈したのは特設監視艇第三宝松丸(吉川広之、111トン)であった。哨戒の最後の4日間は、九州沖航空戦で大破し曳航されている空母フランクリン (USS Franklin, CV-13) への支援に従事した。3月30日、パイパーは60日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
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第1の哨戒 1945年1月 - 3月
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「ラガート (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1945年1月 - 3月」の解説
1月24日、ラガートは最初の哨戒でハダック (USS Haddock, SS-231) とともに小笠原諸島方面に向かった。駆潜艇 PC-486 の護衛を受けて真珠湾を出航し、2月5日に歩兵上陸用舟艇 LCI-677の出迎えを受けてサイパン島タナパグ港に到着。アングラー (USS Angler, SS-240) と並んで潜水母艦フルトン (USS Fulton, AS-11) に横付けした。しかし、翌2月6日に自動車事故が起き、ラガート乗組の2人のベテラン将校であるウォルター・R・ショー、アレン・G・ブレウィントンと潜水隊司令ジョン・P・ローチ、およびアナポリス時代の級友らが大怪我を負った。この事故により、潜水隊司令はウォルター・B・フェルプスに代わった。また、ショーとブレヴィントンもラガートから退艦したが、ショーはこの怪我が原因で数日後に他界した。 2月7日、ラガートはハダック、セネット (USS Sennet, SS-408) とウルフパック「ラタズ・ランサーズ Latta’s Lancers 」を構成し出撃。この哨戒では、この方面にある特設監視艇群を蹴散らして来るべき硫黄島の戦いを支援する第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)やB-29などへの手助けをする任務が与えられていた。2月8日、ラガートにショーの訃報がもたらされた。ラタは悲しみにくれつつも任務を遂行する旨、潜水隊司令に報告した。2月11日、ラガートは自艦の哨区に到着し、任務を開始。翌2月12日、ラガートのレーダーは何らかの目標を探知。これは先にB-29から警告されていた目標と思われた。ハダックもレーダーで目標を探知し、追跡を開始した。ラガートとハダックは西航し、やがてセネットも合流して目標を追い続けた。2月13日早朝、ラガートらのウルフパックは漂泊していた特設監視艇を発見し攻撃。ラガートを中心にハダックとセネットで包囲態勢を作り、6時20分に特設監視艇第八事代丸(寺本正市、109トン)と第三号昭和丸(籠尾兼吉、76トン)に一方的な戦いを行った。2隻の監視艇も必死の反撃に打って出たが全く勝負にならず、あっけなく撃沈された。ウルフパックは残骸や脱出した乗組員を銃撃した後、更なる獲物を求めた。途中、一式陸攻に発見され潜航を余儀なくされたが、被害はなかった。再浮上の後、新たな特設監視艇を発見。巧みに接近し、翌2月14日の夜明けに攻撃。あいにくの曇天だったが、5,100メートルの距離から射撃。攻撃された特設監視艇第三感応丸(佐野信太郎、98トン)の抵抗は前日のものより激しく、攻撃したラガートらのウルフパックは抵抗に手を焼き、ハダックに至っては小物相手ながら魚雷1本を発射。しかし、これは命中しなかった。やがて機銃弾を使い果たしたので7時ごろにこの海域を去った。その後は豊後水道方面の新しい哨区に向かった。2月24日11時ごろ、ラガートは北緯32度41分 東経132度36分 / 北緯32.683度 東経132.600度 / 32.683; 132.600の沖の島近海で呂型潜水艦と思しき艦船を発見し、態勢を整えて11時18分に魚雷4本を発射。魚雷は目標に命中し目標は海中で何度も爆発しながら沈んでいった。この事からアメリカ側では、この艦船は1月31日にメレヨン島から日本に向けて航行していた伊371であろうとしている。しかし、実際にラガートが撃沈したのは辰桃丸(辰馬汽船、880トン)だった。この後の哨戒は荒天の影響もあり、何隻かの特設監視艇と遭遇した以外は実りのないものとなった。3月14日にハダックと合流し、3月20日に55日間の行動を終えてスービック湾に帰投。潜水母艦ハワード・W・ギルモア (USS Howard W. Gilmore, AS-16) による整備を受けた。
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