第1の哨戒 1945年3月 - 4月
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「ブルヘッド (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1945年3月 - 4月」の解説
1945年3月21日、ブルヘッドは最初の哨戒で南シナ海に向かった。3月31日朝、ブルヘッドはプラタス島へ艦砲射撃を行い、日本軍の通信施設を破壊した。その後、高雄と香港間の中国沿岸に出撃し、4月16日には墜落したB-29のクルーであるアーヴィング・チャーノ、ハロルド・ストゥーム、ロバート・トゥケルの3名を救助した。4月24日には、プラタス島に対して再度の艦砲射撃を行った。4月28日、ブルヘッドは37日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。
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第1の哨戒 1945年3月 - 4月
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「ティグロン (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1945年3月 - 4月」の解説
3月9日、ティグロンは最初の哨戒で東シナ海に向かった。3月19日にグアムアプラ港に寄港。同地でエンジン修理のため3日間停泊し、3月21日にブルヘッド (USS Bullhead, SS-332) およびブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) とウルフパックを組んで出撃した。部隊はティグロン艦長のキャシディ中佐が指揮を執った。一行はシーホース (USS Seahorse, SS-304) と合流し、南シナ海へと進路を取った。部隊は日本船団を迎え撃つため偵察ラインを形成した。 シーホースは3月24日に B-24 リベレーターに敵と誤認され機銃掃射を受けた。ティグロンは3月29日に南シナ海で最初の敵と遭遇する。敵の隼を回避するため60フィートの深度に潜航したが、前方バッテリー室で小爆発による上下動を感知した。敵機が小型爆弾を投下したことによるものであった。この戦闘では損害を受けることなく、ティグロンは中国沿岸の航路帯で哨戒を継続した。 続く数日間は、味方航空機が発見した輸送船団を追ったものの、結局発見できなかった。4月3日以降は海南島沖で救助配備任務に就いた。4月5日、ティグロンは再び日本機に爆撃されたものの、回避した。4月8日、ティグロンは元の位置に戻るため、8キロの距離を引き返し始めた。2分後、ティグロンの艦首の先500メートルの地点に、敵潜水艦から発射された魚雷の航跡らしきものを発見。ティグロンが左に舵を取ると、魚雷はティグロンから50メートルもないところを通過していった。ティグロンは潜航し、無音潜航に切り替えた。また、ティグロンはこの日に、この方面に配備されていたスヌーク (USS Snook, SS-279) と交信しており、スヌークは同日の7時40分には.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯18度40分 東経110度40分 / 北緯18.667度 東経110.667度 / 18.667; 110.667の「ゼブラ」と称された地点にいたことを知らせた。これ以降、スヌークの足取りは途絶えた。 4月9日から15日まで、ティグロンは引き続き海南島とその周辺で救助配備任務を続けた後、4月16日夜にプラタス島に対して5インチ砲で艦砲射撃を行い、4月18日にはロック (USS Rock, SS-274) とともにバスコの市街地に向けて艦砲射撃を行った。4月24日、ティグロンは43日間の行動を終えてアプラ港に帰投。潜水母艦アポロ (USS Apollo, AS-25) による修理を受けたのち、5月19日にサイパン島に向けて出航した。
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「ティランテ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1945年3月 - 4月」の解説
1945年3月3日、ティランテは最初の哨戒で日本本土海域に向かった。九州西方を巡航したティランテは、長崎への入り口を哨戒し戦果を挙げる。3月25日、ティランテは北緯31度09分 東経130度31分 / 北緯31.150度 東経130.517度 / 31.150; 130.517の地点で、蛟竜隊の人員を乗せて沖縄島に向かっていた特設駆潜艇富士丸(関西汽船、703トン)を撃沈した。3日後の3月28日昼には、北緯32度14分 東経129度56分 / 北緯32.233度 東経129.933度 / 32.233; 129.933の地点で貨客船名瀬丸(大阪商船、1,218トン)を撃沈した。2度目の戦闘では日本軍の護衛艦による攻撃で、ティランテは7時間の潜航を強いられたものの、無事戦線から離脱した。また、名瀬丸の被雷する様子が映像に残された。3月31日、ティランテは北緯31度11分 東経130度04分 / 北緯31.183度 東経130.067度 / 31.183; 130.067の地点で100トンの小型帆船に対して5インチ砲および40ミリ機関砲で砲撃を行いこれを撃沈した。4月1日には二等輸送艦に対して3本の魚雷を発射したものの命中させることはできなかった。ティランテはすぐに移動し、対馬海峡に近い朝鮮半島の南岸で活動する。4月6日の朝に小型漁船との戦闘でこれを拿捕、撃沈前に乗組員3人を捕虜とした。翌日ティランテは、小黒島近海でドラム缶、貨物を甲板に積み込んだ2,800トン級輸送船と思われる船舶を破壊した。ティランテは浮上して残骸を調査し、貨物の残骸にしがみついていた2名の生存者を救助する様近くの漁船に指示した。ティランテの乗員はこの撃沈を報告したものの、日本側の戦後の資料では撃沈された船を確認することはできなかったが、アメリカ側はこの目標は特設駆潜艇多摩丸(三共海運、396トン)であろうとしている。 この頃、アメリカ海軍の情報部は日本の暗号を解読し、日本軍の動静をほぼ予測していた。傍受した1本の無電に、ティランテの哨戒海域に向かう重要な輸送船団の情報が含まれていた。この情報に応じて、ティランテは4月9日に潜航して船団を待ち伏せた。程なくしてティランテは向かってくるタモ53船団を発見。2隻を標的に選び、それぞれに3本の魚雷を発射した。2隻の1隻である聖川丸(川崎汽船、6,862トン)には命中しなかったが、もう1隻、貨客船日光丸(東亜海運、5,057トン)に命中弾を与え、北緯36度46分 東経123度36分 / 北緯36.767度 東経123.600度 / 36.767; 123.600の地点で撃沈した。 日光丸は聖川丸とともに、台湾産の砂糖や帰国する引揚者、陸軍兵士および上海からの水兵などを乗せていた。日光丸が沈没すると共に、護衛艦が反撃に移った。逆襲を防ぐためティランテは護衛艦の1隻に対して魚雷を発射し、後に爆発音が聞こえた。戦後の記録では第102号海防艦の操舵機に魚雷が命中し、航行不能に陥ったと記録されている。 ティランテは黄海での哨戒を再開し、済州島と長江河口の間を巡航した。間もなく済州島北西部の飛揚島にいる輸送船団、モシ02船団の情報を受け取る。これを受けてティランテは夜に紛れて接近を開始した。輸送船団が停泊中の海域は浅海だったため、潜航攻撃での不利を予期して浮上したまま戦闘配置を令し、銃砲に人員を配置して接近していった。ティランテは敵のレーダー、哨戒機および哨戒艇を避けて大きく迂回しつつ北東方向から湾に侵入し、ティランテは3つの目標、貨客船寿山丸(大連汽船、3,943トン)と2隻の海防艦能美および第31号海防艦を発見。他に海防艦三宅、第213号海防艦も在泊中だった。ティランテが湾内に侵入したときは、丁度三宅に代わって第31号海防艦が湾口哨戒の配備に就いたところであり、ティランテは海防艦からわずか20メートルの距離を、相手に気付かれず通過していった。 4月14日未明、ティランテはまず寿山丸に対して3本の魚雷を発射した。魚雷は命中、大爆発を起こし炎上する。火炎によってティランテはその姿を照らし出され、能美と第31号海防艦はティランテの方に向かった。ティランテは全速力で外洋に向かいつつ、艦首発射管から追跡する敵艦に対して放射状に魚雷を2本発射、魚雷は能美に命中し、能美は瞬時に爆沈。能美に乗艦していた第一海防隊司令池田映海軍大佐も戦死した。第31号海防艦は引き続きティランテを追跡。ティランテは最後に残った艦尾の魚雷1本を第31号海防艦に向けて発射。魚雷は命中したものの不発であり、ここまではティランテにとっては不運だった。しかし、命中のショックで第31号海防艦の爆雷庫に火災が発生。第31号海防艦は横転して沈没した。ミッドウェー島への帰路の途中、ティランテは日本軍のパイロット2名を捕らえ、捕虜は合計で5名となった。4月26日、ティランテは52日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。ティランテの輝かしい戦績により、艦長のストリート中佐は名誉勲章を受章することとなった。副長のエドワード・L・ビーチ(英語版)中尉は海軍十字章を受章した。艦自体も殊勲部隊章を受章した。
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