第1の哨戒 1944年8月 - 10月
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「スキャバードフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年8月 - 10月」の解説
8月17日、スキャバードフィッシュは最初の哨戒で南西諸島方面に向かった。ミッドウェー島で給油を行った後、哨戒海域に到着。8月31日、スキャバードフィッシュは最初の敵船を発見した。それは2隻の護衛艦を従えた島間の汽船であった。スキャバードフィッシュは放射状に3本ずつ魚雷を2度発射したが命中することはなかった。護衛艦による爆雷攻撃を凌いだ後、スキャバードフィッシュは浮上し西方に向けて哨戒を継続した。9月19日9時15分ごろ、スキャバードフィッシュは那覇北西方で潜水母艦迅鯨に対して魚雷2本を命中させ損傷を与え、航行不能に陥らせた。さらに千鳥型水雷艇と思われる艦艇に対して攻撃を行ったがそれは失敗した。スキャバードフィッシュは3時間の爆雷攻撃を受けることとなったが、損害はなかった。哨戒の残りは戦果を挙げることができなかった。10月12日、スキャバードフィッシュは56日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。2週間後、スキャバードフィッシュはさらなる命令に備えるべく、前進基地が設置されていたサイパン島に回航された。
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第1の哨戒 1944年8月 - 10月
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「ベクーナ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年8月 - 10月」の解説
8月23日、ベクーナは最初の哨戒で南シナ海に向かった。10月8日未明、ベクーナは北緯14度12分 東経115度53分 / 北緯14.200度 東経115.883度 / 14.200; 115.883の地点でヒ76船団を発見し、元特設水上機母艦君川丸 (川崎汽船、6,863トン)に魚雷1本を命中させ、撃沈こそ出来なかったものの君川丸を船団から脱落させた。翌10月9日には、北緯12度45分 東経118度00分 / 北緯12.750度 東経118.000度 / 12.750; 118.000のパラワン島北西海域でミ19船団を発見。タンカーさんるいす丸(三菱汽船、7,268トン)の船首に魚雷を命中させる(ただし沈没には至らなかった)。続けさまにホークビル (USS Hawkbill, SS-366) と共同で、北緯12度43分 東経118度05分 / 北緯12.717度 東経118.083度 / 12.717; 118.083の地点で応急タンカー徳和丸(日東汽船、1,943トン)を撃沈した。10月18日、ベクーナは56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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第1の哨戒、1944年8月 - 10月
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「クイーンフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒、1944年8月 - 10月」の解説
8月4日、クイーンフィッシュは最初の哨戒で、バーブ (USS Barb, SS-220) 、タニー (USS Tunny, SS-282) とウルフパック「エドのインク消し Ed's Eradicators」を組んでルソン海峡方面に向かった。ウルフパックの指揮官はユージーン・B・フラッキー艦長指揮のバーブに座乗したエドウィン・R・スウィンバーンであった。8月31日、(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯21度24分 東経121度04分 / 北緯21.400度 東経121.067度 / 21.400; 121.067) の鵝鑾鼻南南東海域でタニーが、南下してくるミ15船団を発見し、クイーンフィッシュもこれに続いた。未明、クイーンフィッシュは応急タンカー千代田丸(日本郵船、4,701トン)に対して魚雷を6本発射。魚雷は千代田丸の右舷に4本が命中し、千代田丸は全船炎上ののち3時35分に沈没した。続く第二撃では、タンカー力行丸(日本油槽船、9,181トン)に魚雷を3本命中させたが、力行丸は沈没を逃れた。翌9月1日、タニーはヒ船団の一つのヒ73船団を攻撃した際、空母雲鷹機の爆撃を受け損傷し、哨戒を打ち切って戦線を離脱。クイーンフィッシュは残ったバーブとともに哨戒を続けた。9月9日未明には、バタン諸島海域を南下するタマ25船団を発見し、貨客船豊岡丸(鏑木汽船、7,097トン)に魚雷を命中させて撃沈。続いて輸送船満州丸(日本海汽船、3,054トン)に魚雷を3本命中させて撃沈した。 9月12日、海南島のはるか東方でヒ72船団が攻撃され、何隻かの沈没が出た。撃沈された船舶の中には、連合軍の捕虜を満載していた楽洋丸(南洋海運、9,418トン)も含まれていた。日本軍は自軍の生存者は救助したものの、2,100名のイギリスおよびオーストラリア兵捕虜の救助は行わなかったか、楽洋丸とともに沈めてしまった。太平洋潜水艦隊司令は部隊に対して、海上を漂流する捕虜の救助を命じ、クイーンフィッシュとバーブのウルフパックにも救助が命じられた。9月14日13時ごろ、クイーンフィッシュの見張りはいかだを発見。近寄ってみると、いかだの内外に大勢の人間がしがみついていた。ほとんどは弱っており、クイーンフィッシュから投げられたロープにつかまる気力すらなかった。そこで、クイーンフィッシュの士官、水兵らは自ら飛び込んで彼らを救助し、艦上に引き上げた。彼らは言うまでもなく、楽洋丸から放り出された捕虜たちだった。乗組員は救助した捕虜18名に看護や洗浄、食料で手厚くもてなした。にもかかわらず、2名のオーストラリア兵とイギリス兵は息を引き取り、水葬の礼で葬られた。ウルフパック全体では127名を救助した。台風が接近したため、クイーンフィッシュの哨戒は終了した。10月3日、クイーンフィッシュは59日間の行動を終えてマジュロ環礁に帰投。捕虜救助の功に対し、大統領特別感状が授けられた。
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