第1の哨戒 1944年6月 - 7月
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「シーライオン (SS-315)」の記事における「第1の哨戒 1944年6月 - 7月」の解説
6月8日、シーライオンは最初の哨戒でタング (USS Tang, SS-306) とともに東シナ海に向かった。6月12日から15日までミッドウェー島に寄港し、6月22日にトカラ列島を抜けて、翌23日にタングとともに大隅諸島南部で哨戒配備に就いた。その日の午後、シーライオンは最初の攻撃を行ったものの失敗し、反撃を避けるため深く潜航した。 6月24日、シーライオンとタングはティノサ (USS Tinosa, SS-283) と会合し、佐世保への航路に哨戒海域を移動した。6月25日、輸送船団発見の報によりシーライオンも攻撃態勢に入ったが、深度調整の不手際により攻撃位置に達しながらも攻撃が出来なかった。その後、シーライオンは佐世保近海から朝鮮半島方面に針路を取った。6月28日、シーライオンは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度53分 東経129度01分 / 北緯33.883度 東経129.017度 / 33.883; 129.017の対馬近海で三星丸(山下汽船、2,386トン)を撃沈。2日後の6月30日には朝鮮半島南岸でサンパンを浮上砲戦で撃沈した。7月に入ってから、シーライオンは上海近海の新しい哨戒海域に移動した。 7月6日朝、シーライオンは舟山群島近海で門司に向かう3311船団を発見。5時47分、シーライオンは北緯29度57分 東経122度51分 / 北緯29.950度 東経122.850度 / 29.950; 122.850の地点で雪山丸(拿捕船、1,922トン)などに向けて魚雷を2本発射。魚雷は雪山丸の後部に命中し間もなく沈没。3311船団は各艦船それぞれのスピードを出して避退行動に入り、護衛の砲艦興津と駆逐艦蓮が探索を開始。シーライオンは東北方向に避退したのち、6時に興津か蓮に向けて魚雷を4本発射。しかし、魚雷は命中しなかった。1時間後には哨戒機もシーライオン探索に加わり、午後まで続けられた。シーライオンは上手く戦場を離脱した。 3日後の7月9日、シーライオンは山東半島と朝鮮半島を結ぶ海域に移動して哨戒。この海域は濃霧で覆われており、しかもシーライオンのレーダーは調子が良くなく、シーライオンは盲目状態に置かれた。幸い、7月10日から11日にかけてレーダーの調子が部分的ながらも回復した。7月11日朝、シーライオンは山東半島東端沖で輸送船団を探知し、反復攻撃をかけた。特に、2番目の目標に対しては7時間もの追跡ののち3度の攻撃をかけ、7時11分に3度目の攻撃で最後に残った魚雷を発射。魚雷は目標の左舷後部に命中し、シーライオンは目標の船橋を20ミリ機銃で掃射。目標は7時14分に沈んでいった。この一連の攻撃で、シーライオンは第二筑紫丸(三井船舶、2,417トン)と第二大安丸(正福汽船、1,034トン)を撃沈した。7月13日にトカラ列島を通過。7月21日、シーライオンは42日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。潜水母艦フルトン (USS Fulton, AS-11) による整備を受けた。
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