アメリカ軍の強襲準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
「硫黄島の戦い」の記事における「アメリカ軍の強襲準備」の解説
マリアナから第7空軍のB-24が上陸準備として74日間の連続爆撃を行ったが、水平爆撃ではピンポイント攻撃は不能であり、資材運搬の日本軍の二等輸送艦を数隻(参加した全て)撃沈できたのみで日本軍陣地へのダメージは少ないと判断された。アメリカ軍は硫黄島が相当に要塞化されていることを偵察写真などで掴んでおり、大損害が必至の硫黄島の攻略には反対していた第56任務部隊司令官スミスは「硫黄島は我々が今まで占領しなければならなかった島の中で、いちばん堅固な島でしょう。なぜあの島をとりたいと言うのかわかりませんが、とることはとりましょう」と消極的な意見をスプルーアンスに述べていたが、上陸するのであれば少しでも日本軍を叩くべきと考えて10日間の艦砲射撃を要請した。しかし、同時にフィリピンの戦いの支援を行わなければならないこと、10日間も艦砲射撃をしたのでは弾薬が枯渇し補給が必要となること、また10日間も硫黄島近海に艦隊を置いておくことは日本本土からの航空機の攻撃に曝されることなどの理由からスプルーアンスはスミスの要請を却下し、艦砲射撃の期間を3日間とした。さらにスプルーアンスは、硫黄島上陸に先立ち、日本本土を奇襲攻撃して日本軍の航空戦力を叩くという「ジャンボリー作戦」を計画しており、新鋭戦艦「ワシントン」と「ノースカロライナ」の2隻と重巡洋艦「インディアナポリス」を高速空母隊の護衛とするため、事前の艦砲射撃には参加させないとも通告してきた。ただでさえ気が短く“カミナリ”の異名を持つスミスは、スプルーアンスが海兵隊の支援よりは、B-29による日本本土空襲で評価されている第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将に対抗意識を燃やして、大して効果も見込めない艦載機による日本本土空襲を優先しているものと考えて激怒した。のちにスミスは「タラワの環礁に浮いた海兵隊の死骸や、海岸を埋め尽くした海兵隊の骸を忘れることはできない。彼らは当然、艦砲射撃で粉砕できたはずの敵陣地を、肉弾で攻めたために命を落としたのだ」とスプルーアンスを激しく批判したが、スプルーアンスは「いかに砲爆撃を加えようと硫黄島の日本軍を一掃するためには、結局は小銃と火炎放射器を持った海兵隊員の攻撃による他なかった」と反論をしている。 1945年2月11日、スプルーアンスが率いる硫黄島攻略部隊の艦船900隻、艦載機1,200機、兵士10万人が、ウルシーやサイパン島から硫黄島に向けて進撃を開始した。スプルーアンスの計画通り、高速空母部隊の第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は「ジャンボリー作戦」実施のため、日本軍に発見されないよう、艦載機を先行させて日本軍の哨戒艇や偵察機を排除しながら25ノットの高速航行し、日本軍に気づかれることなく東京から125マイル(約200km)、房総半島から60マイル(約100km)まで接近に成功した。1945年2月16日の夜明けに悪天候下で艦載機の発艦を強行したおかげもあり、完全に奇襲に成功したアメリカ軍の艦載機は、ドーリットル空襲以来の艦載機による日本本土への空襲に成功した。 完全に奇襲された日本軍はまともに迎撃することもできず、アメリカ軍は1日中関東上空を乱舞し航空基地や工場施設を存分に叩いて、88機の損失に対して 350機の日本軍機の撃墜破を報告している(日本側の記録では陸海軍で150機の損失)。日本軍はアメリカ軍の大艦隊が出撃したことをトラック島から出た偵察機「彩雲」の報告で掴んでおり、日本本土方面に向かっていることも分かっていた。本州東部及び南方諸島の航空作戦を担任していた第三航空艦隊は、藤枝基地から一式陸上攻撃機と同基地に配属されていた「芙蓉部隊」の零式艦上戦闘機を偵察に出していたが、どちらも第58任務部隊発見前に艦載機に撃墜され未帰還となっており、第58任務部隊の接近に気が付くことはなかった。2月10日に第五航空艦隊の司令長官に就任したばかりの宇垣纏中将は、敵大艦隊がサイパン島を出撃したという情報を掴んでいながら、偵察の不首尾で大損害を被った第三航空艦隊に対して「遺憾千万と云うべし」と激怒している。 空襲の後、第三航空艦隊はようやく第58任務部隊を房総半島沖で発見、指揮下の航空隊に攻撃を命じた。関東の基地は空襲により大損害を被っていたので、藤枝基地の「芙蓉部隊」など関東地区以外の航空隊にも出撃命令が出た。「芙蓉部隊」の指揮官美濃部正少佐は、出撃する搭乗員に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と特攻を命じるなど、通常攻撃と特攻の混成部隊が第58任務部隊に向けて出撃したが、どの部隊も第58任務部隊を発見することができず、逆にアメリカ軍は帰投する日本軍機を追尾して、出撃した航空基地を叩いた。藤枝基地も出撃した「芙蓉部隊」機がアメリカ軍の艦隊に接触すらできなかったのにも関わらず、逆に艦載機に追尾されて、出撃機が着陸するやアメリカ軍艦載機は空襲を開始、出撃機は全機破壊され部隊は壊滅状態となり藤枝基地も大損害を被った。日本軍は貴重な航空戦力を稚拙な戦闘で消耗してしまい、この後硫黄島に対して十分な航空支援を行うことができなくなってしまった。日本軍機の反撃がないなかで、1945年2月16日に ウィリアム・H・P・ブランディ(英語版) 少将率いる上陸支援艦隊が硫黄島への艦砲射撃を開始した。 ミッチャーは日本軍の迎撃が予想以上に微弱であったことや、天候が崩れてきたこともあり、2月17日には「ジャンボリー作戦」を中止し、硫黄島の支援に向かうこととした。「ジャンボリー作戦」は一定の効果はあったが、艦砲射撃の期間を短縮してまで強行しただけの効果があったのかについては、海軍と海兵隊では大きな見解の乖離があり、海軍のニミッツは「この攻撃は、日本防衛態勢の中心に加えた徹底的な打撃であり、歴史的勝利である」と胸を張っていたが、海兵隊史では「艦砲射撃を3日で切り上げたことは、多大な犠牲を生んだ痛烈な皮肉であったし、補足的作業(ジャンボリー作戦のこと)が、本来の目的をないがしろにした好例だった」と評し、スミスも「我々は、かけがえのない人命と替えのきく弾薬を天秤にかけて、馬を売買するように交渉しなければならなかった。わたしは人生でこれほど落ち込んだことはなかった」 「海軍が25年間全く考え方が変わっていない点を思い起こすと胸が悪くなる、海軍は第一次世界大戦の戦訓から前進しようとせず、むしろ後退し、時代遅れの思想に進歩を阻まれていた」と激しく批判している。
※この「アメリカ軍の強襲準備」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「アメリカ軍の強襲準備」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。
- アメリカ軍の強襲準備のページへのリンク