白人の対抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 23:44 UTC 版)
バーント・コーンの戦いの後で、アメリカ合衆国陸軍長官ジョン・アームストロングは、第6方面軍の指揮官トマス・ピンクニー将軍に、アメリカはクリーク族に対して行動を取る用意があると伝えた。さらにスペインがクリーク族を支持していると分かったならば、ペンサコーラに対する攻撃も正当化されるとした。ジョージア州は、現在のジョージアとアラバマの州境であるチャッタフーチー川に沿って一連の砦を作り上げて、準備を開始した。この行動は辺境を守るとともに、攻撃の準備をする時間を稼ぐものであった。 ミシシッピ準州の民兵指揮官フェルディナンド・クレアボーン准将は、クリーク族領地の西部境界あたりに自軍の弱点があることを認識し、先制攻撃を掛けることを主張した。しかし、第7方面軍指揮官のトマス・フラーニー少将は、この要求を拒み続け、この地区のアメリカ軍の戦略は防御であることをクレアボーンに思い出させた。一方でその地域の入植者は小要塞への逃亡を求めた。 ミムズ砦虐殺に反応して、テネシー州議会はウィリアム・ブラウント知事が3ヶ月の従軍義務のある5,000名の民兵を組織することを承認した。ブラウントはアンドリュー・ジャクソン大佐のもとに2,500名の西テネシー部隊を召集し、「近づいてくる侵略に反撃し ... ミシシッピ準州を ... 助け解放する」と伝えた。さらにウィリアム・コック少将の下に2,500名の東テネシー部隊を召集した。ジャクソンとコックは10月初めまでは出動準備が整わなかった。 テネシー、ジョージアおよびミシシッピの動きに加えて、インディアン部局代理人ベンジャミン・ホーキンスは、ウィリアム・マッキントッシュ少佐の下に友好的なローワータウンのクリーク族を組織して、レッド・スティックスに対する作戦でジョージアとテネシーの民兵を支援することとした。 連邦インディアン部局長であり、その髪の色でホワイト・イーグルとしても知られていたリターン・J ・メイグスの呼びかけに応じて、チェロキー族は宿敵レッド・スティックスに対し、アメリカ軍に協力することを合議で決した。メイジャー・リッジの指揮で200名のチェロキー族がアンドリュー・ジャクソン指揮のテネシー民兵と共に戦った。 集落の数では、クリーク族集落の約3分の2がアッパー・クリークであった。それらの集落はアラバマ州の心臓部を流れるアラバマ川、クーザ川およびタラプーザ川沿いにあった。対照的にローワー・クリークの集落は、チャッタフーチー川沿いにあった。多くのクリーク族は白人と友好的なままであろうとしたが、ミムズ砦の事件の後は、南東部の白人は友好的なクリーク族と敵対的なクリーク族の区別ができなくなっていた。 大まかに言って、レッド・スティックスには4,000名の戦士がおり、おそらく1,000丁の銃を持っていた。彼らはたとえ近隣の相手でも大規模な戦闘を行うことは無かった。戦争の初期にコック将軍は、弓矢が「敵軍の戦時における主要な武器であり、全員が弓と1束の矢を持ち、銃による最初の攻撃から次の弾込めの間に弓矢を使っている」と報告した。 クーザ川とタラプーザ川が合流する場所にあるホーリー・グラウンドがレッド・スティックス連合の本拠地であった。そこは3つのアメリカ軍の補給点から少なくとも約150マイル (240 km)離れていた。最も容易な攻撃経路は、ジョージアから辺境に作った砦を経て、アッパー・クリークにつながるよりましな道を通ってホーリー・グラウンドに至るものだった。もう一つの経路はモービルからアラバマ川に沿って行くものだった。最も難しい経路は、これをジャクソンが進んだが、テネシーから南に山脈を越え道無き道を行くものだった。
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