トマス・ピンクニーとは? わかりやすく解説

トマス・ピンクニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/28 08:19 UTC 版)

トマス・ピンクニー
Thomas Pinckney
アメリカ合衆国下院議員
サウスカロライナ州サウスカロライナ州1区選出
任期
1797年11月23日 – 1801年3月3日
前任者 ウィリアム・スミス英語版
後任者 トーマス・ラウンズ英語版
第2代 在イギリスアメリカ合衆国大使
任期
1792年8月9日 – 1796年7月27日
大統領 ジョージ・ワシントン
前任者 ジョン・アダムズ
後任者 ルーファス・キング
第36代 サウスカロライナ州知事
任期
1787年2月20日 – 1789年1月26日
副知事 トーマス・ガッデン
前任者 ウィリアム・ウォールトリー英語版
後任者 チャールズ・ピンクニー
個人情報
生誕 (1750-10-23) 1750年10月23日
イギリス領北米植民地 サウスカロライナ植民地チャールストン
死没 (1828-11-02) 1828年11月2日(78歳没)
アメリカ合衆国 サウスカロライナ州チャールストン
政党 連邦党
教育 オックスフォード大学クライスト・チャーチ (BA)
サン・シール陸軍士官学校
インナー・テンプル
兵役経験
所属国  アメリカ合衆国
所属組織 大陸軍
 アメリカ陸軍
軍歴 1775年–1783年 (大陸軍)
1812年–1815年 (アメリカ陸軍)
最終階級 少佐 (大陸軍)
少将 (アメリカ陸軍)
部隊 第1サウスカロライナ連隊英語版
戦闘 アメリカ独立戦争
 • キャムデンの戦い
米英戦争

トマス・ピンクニー(Thomas Pinckney, 1750年10月23日 - 1828年11月2日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、外交官。

生い立ちと初期の経歴

ピンクニーはサウスカロライナ植民地チャールストンで誕生した。ピンクニーはイングランドウェストミンスター・スクールで学び、オックスフォード大学を卒業した。ピンクニーはその後フランス軍事大学で1年を過ごし、続いてロンドン法学院インナー・テンプルで法律を学んだ。ピンクニーは1774年に弁護士として認可を受け、故郷チャールストンで弁護士業を開業した。

アメリカ独立戦争

ピンクニーは1775年から1781年までアメリカ独立戦争に参加した。ピンクニーは1775年大陸軍第1連隊で工兵大尉となり、1778年のフロリダでの作戦で少佐となった。1778年から1779年まではベンジャミン・リンカーン将軍の下で働き、1780年からはチャールストンの防衛に当たった。ピンクニーはキャムデンの戦いで負傷し、イギリス軍に一時拘束された。

サウスカロライナ州知事

ピンクニーは1787年から1789年までサウスカロライナ州知事を務めた。ピンクニーは1788年5月にサウスカロライナ州の合衆国憲法批准会議で議長を務め、州としてアメリカ合衆国憲法を承認するかどうかを議論した。ピンクニーは1791年にサウスカロライナ州下院議員を務めた。

外交官として

ピンクニーは1792年1月12日駐イギリス全権公使として任命された。ピンクニーは同年8月9日イギリス国王ジョージ3世に信任状を奉呈し、着任した。ピンクニーは1796年7月27日に召還されるまで駐イギリス公使を務めた。

ピンクニーはまた1794年11月24日に対スペイン特派使節としても任命を受け、1795年11月までスペインとの条約交渉に当たった。ピンクニーはこの条約交渉において、スペインの大幅な譲歩を引き出すことに成功した。ピンクニーは北アメリカ大陸にあるスペイン領土(フロリダ、ルイジアナなど)とアメリカ合衆国領土との間の国境を明確に規定し、その上でミシシッピ川の自由航行権と河口のニューオーリンズ港の物資貯蔵権を認めさせた(ピンクニー条約)。

連邦下院議員

ピンクニーは1797年11月23日から1801年3月3日まで連邦下院議員を務めた。ピンクニーはウィリアム・スミスの辞任に伴う欠員充当として選任され、第5回議会途中から参加した。ピンクニーは続く第6回議会にも再選した。

ピンクニーは連邦下院において、1798年テネシー州選出上院議員ウィリアム・ブラウントの弾劾手続きを運営する委員を務めた。またピンクニーは連邦党の政策を支持したが、外国人・治安諸法に限っては反対票を投じた。ピンクニーはフランスとの戦争は望まないと主張した。

米英戦争

ピンクニーは1812年米英戦争に少将として参加した。

晩年

ピンクニーは1825年から1828年までシンシナティ協会会長を務めた。

1828年11月2日、ピンクニーはチャールストンにおいて死去した。ピンクニーの遺体はチャールストン市内の聖フィリップ墓地に埋葬された。

家族

トマス・ピンクニーの父親はチャールズ・ピンクニー (Charles Pinckney, 1699-1758)、母親はエリザベス・ルーカス (Elizabeth Lucas, 1722-1793) であった。

ピンクニーは1779年7月22日にエリザベス・モット (Elizabeth Motte, 1762-1794) と結婚した。2人の間には以下の子供が生まれた。

  1. トマス・ピンクニー (Thomas Pinckney, 1780-1842)
  2. エドワード・ラトリッジ・ピンクニー (Edward Rutledge Pinckney, 1782-????)
  3. ハリオット・ルーカス・ピンクニー (Harriett Lucas Pinckney, 1784-1824)
  4. エリザベス・ブルトン・ピンクニー (Elizabeth Brewton Pinckney, 1786-1857)
  5. レベッカ・モット・ピンクニー (Rebecca Motte Pinckney, 1788-1797)
  6. フランシス・コーツワース・ピンクニー (Charles Cotesworth Pinckney, 1789-1865)
  7. メアリー・ピンクニー (Mary Pinckney, 1790-????)

ピンクニーは1797年10月19日にフランシス・モット (Elizabeth Motte, 1763-1843) と結婚した。2人の間に子供は生まれなかった。

外部リンク

公職
先代
ウィリアム・ムールトリー
サウスカロライナ州知事
1787年2月20日 - 1789年1月26日
次代
チャールズ・ピンクニー
外交職
先代
ジョン・アダムズ
在イギリスアメリカ合衆国全権公使
1792年8月9日 - 1796年7月27日
次代
ルーファス・キング




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