白人の植民期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 03:33 UTC 版)
1620年にピルグリム・ファーザーズがアメリカ東海岸のプリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があった。厳しい冬を越すために、むしろインディアンに助けられて入植者が定着できたという面もあった。ただし、全ての地域でインディアンが友好的に白人を迎えたわけではなく、インディアンに様々な部族があったように、白人を迎えたインディアンの対応は様々であり、16世紀前半のフロリダのように有無を言わせず退去させられた例もあった。17世紀前半のフランスの場合は、敵対するインディアンの一方に荷担して、まだ銃火器を持たないインディアンを圧倒するようなことがあった。 インディアンは、その狩猟生活に貴重な道具となった銃を供給してくれ、かつ様々な商品を交易したり贈り物を届けてくれる白人とは友好的な関係を保った。しかし、いち早く銃を持った部族は他の部族を圧倒する力を持つようになった。17世紀前半のイロコイ連邦がまさにこの典型的な例であり、アメリカ北東部のかなり広い範囲を勢力下に収めることになった。 ジェームズタウンとイギリス人が名付けた最初期の植民地では、植民請負人ジョン・スミスが、飢えた入植者の食料確保のために、各地のインディアンの村を襲い、酋長を人質にとり、物品・食料を強奪した。スミスはポウハタン酋長を「ポウハタン族の皇帝である」と大英帝国に出鱈目な報告を行い、対インディアン政策を誤解の下に進めさせるきっかけを作っている。 一方で、白人の持ち込んだ様々な疫病は、免疫を持たないインディアン部族を激減させ、その力を削いでいった。絶滅した部族も多く、縮小した部族の多くが別部族の傘下に入り、北東部での勢力図は白人との戦争と疫病によって大きく変えられていったのである。
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