歓楽街の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:19 UTC 版)
幕末の1858年(安政5年)に、玉屋町(現在の中区錦)の宿屋・笹野屋庄兵衛の上願により、大須観音の北にあたる北野新地(現在の北野神社付近)に役者芸人の宿が置かれ、後に遊女を置く私娼も現れた。明治維新後の1874年(明治7年)10月、北野新地が公認の遊廓に指定されたが、敷地が狭く、拡張もできないため、1875年(明治8年)に西大須に移転した。新しい遊郭は北野新地があった日之出町に因んで「旭廊(旭遊廓)」と名付けられたが、1923年(大正12年)に現在の中村区大門(おおもん)地区に移転して中村遊廓となった。 こうして幕末期~明治時代は遊郭としても発展したが、1892年(明治25年)の大須大火により衰退。これを受けて1912年(大正元年)に萬松寺が寺領の山林を一般の商業用地として開放。これは現在の大須三丁目の大半にあたるほど広大な土地であり、ここへ劇場、演芸場、映画館などが数多く作られ、名古屋市内随一の歓楽街として復活。第二次世界大戦前までは東京の浅草・大阪の千日前と並び、日本三大繁華街と称されるほど栄えた。 しかし、第二次世界大戦末期のアメリカ軍の戦略爆撃(いわゆる名古屋大空襲)によって大須は壊滅的な被害を受けた。
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