慶長の禁教令とは? わかりやすく解説

慶長の禁教令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:45 UTC 版)

禁教令」の記事における「慶長の禁教令」の解説

江戸幕府岡本大八事件きっかけに、慶長17年3月21日1612年4月21日)に江戸京都駿府始めとする直轄地に対して教会破壊布教禁止命じた禁教令布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止法令であった。 これは布告され教会破壊布教禁止以外にも、家臣団中にいるキリスト教徒捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分付されるなど厳し処置取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰続けたために家康怒りを買い、最期処刑されている。 その後一連の処置総括した条々」が同年8月6日出され1612年禁教令一段落する。また同年5月岡本大八事件改易された最後キリシタン大名有馬晴信切腹処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した慶長18年1614年12月19日家康新たなバテレン追放令作成着手した幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相異名を持つ以心崇伝江戸呼び文案作成させ、翌日、これを承認秀忠送り捺印12月23日公布させた。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう。「伴天連追放之文」の大半神道儒教仏教に関するもので、キリスト教統一され日本の宗教神道儒教仏教三教一致)の敵とし、キリスト教禁止するための神学的正当性示そうとした。以後、これが幕府キリスト教対す基本法となる。 この禁教令によって長崎京都にあった教会破壊され、翌1614年11月慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒マカオマニラ国外追放された。その中には著名な日本人信徒であった高山右近もいた。 ただし、公的にキリスト教禁止になったが、幕府信徒処刑といった徹底的対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教活動続いていた。例え中浦ジュリアンクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画残ったままであった幕府徹底的な対策取れなかったのは、通説では宣教師南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる

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