慶長の禁教令
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江戸幕府は岡本大八事件をきっかけに、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。 これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。 その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。 慶長18年(1614年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印、12月23日に公布させた。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう。「伴天連追放之文」の大半は神道、儒教、仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道、儒教、仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。 この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。 ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる。
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