朝鮮の租庸調
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:53 UTC 版)
朝鮮では、三国時代に中国から律令制度とともに租庸調の制度を輸入したとされている。その後の高麗と李氏朝鮮も、租庸調という伝統的な貢納形態に税制の根拠を置いた。名称と内容は時代とともに変わったが、租庸調の基本的な枠組は、20世紀初まで継続した。 租は土地を対象にして賦課するもので、庸は民の労動力を直接使役することで、調は戸を対象に生産物を貢納させるものである。租は田租(전조)、税、租税、貢、田結税などと、庸は徭、役、徭役、賦、貢賦、布などと、調は貢納(공납)、貢、貢賦などとも呼ばれた。 李氏朝鮮は、租庸調の制度を通じて、土地と民を支配し、生産物と労動力を徴収して体制を維持した。李氏朝鮮初期には、租は田畑が課税の対象なので賦課率が明らかだったが、庸と調は官吏たちの不正が伴って負担が重くなり、農民を苦しめた。李氏朝鮮中期以後には、大同法(대동법)により調の大部分も田畑を対象とし米で納めるようになった。庸は軍布(군포)という布で納めるようになり、また均役法(균역법)の制定後には、一部を田畑を対象とし米で納めるようになった。時代によってその負担の軽重が変わり、初期には庸と調の負担が租よりも重かったが、後期には租の負担が一番重くなった。 李氏朝鮮末期には三政の紊乱といわれる税制上の様々な不正や収奪が横行した。1907年 - 1914年になって日本の統治の下、所得税、財産税、流通税、消費税などの近代的租税制度がもたらされた。
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