朝鮮の戦中戦後とは? わかりやすく解説

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朝鮮の戦中戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「朝鮮の戦中戦後」の解説

1894年7月23日光緒20年6月21日)、日本主導政変により、金弘集内閣誕生すると、日清戦争中、魚允中金允植など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次甲午改革)。高宗閔妃派・大院君官僚らの抵抗強いため、10月着任した井上馨公使要請により、亡命中の朴泳孝徐光範加えた第2次金内閣が発足し改革推進された(第二次甲午改革)。翌年4月17日翌年3月23日)、日清講和条約調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後三国干渉日本威信失墜し6月第2次金内閣が崩壊したそうした情勢の下、10月8日8月20日)に乙未事変閔妃暗殺事件)が起こった大院君執政擁立されて親露派一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、太陽暦採用断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域根を張る両班儒学者たちも反発した。翌1896年建陽元年1月、「衛正斥邪」を掲げ伝統的な守旧派政権打倒目指し挙兵した(初期義兵運動)。農民層を巻き込んだ内乱鎮圧するため、王宮警備手薄になったとき、政権から追われ親露派クーデター決行した親露派は、ロシア水兵助けを得ながら、后を殺害され高宗その子供をロシア公使館移し2月11日新政府樹立した露館播遷)。同日総理大臣金弘集は、光化門外で群衆打ち殺された(甲申政変での急進的開化派独立党)の壊滅につづき、穏健開化派政治的に抹殺された)。 こうして日清開戦から続く、武力背景とした日本単独進出は、日清講和条約調印から1年経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であったその結果義和団の乱後にロシア満洲占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢小康を保つことになる。清の敗戦後朝鮮半島日本政治的に後退し満洲ロシア軍事的進出をしていない状況の下、1897年光武元年10月12日高宗は、皇帝即位式挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め大韓帝国成立宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった迎恩門」および「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑倒され前者跡地フランスエトワール凱旋門模した独立門」が建てられた。

※この「朝鮮の戦中戦後」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「朝鮮の戦中戦後」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。

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