朝鮮の戦中戦後
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1894年7月23日(光緒20年6月21日)、日本主導の政変により、金弘集内閣が誕生すると、日清戦争中、魚允中や金允植など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次甲午改革)。高宗・閔妃派・大院君派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した井上馨公使の要請により、亡命中の朴泳孝と徐光範を加えた第2次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年4月17日(翌年3月23日)、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の三国干渉で日本の威信が失墜し、6月に第2次金内閣が崩壊した。そうした情勢の下、10月8日(8月20日)に乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、太陽暦採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根を張る両班や儒学者たちも反発した。翌1896年(建陽元年)1月、「衛正斥邪」を掲げる伝統的な守旧派が政権打倒を目指して挙兵した(初期義兵運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派がクーデターを決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を殺害された高宗とその子供をロシア公使館に移し、2月11日に新政府を樹立した(露館播遷)。同日、総理大臣の金弘集は、光化門外で群衆に打ち殺された(甲申政変での急進的開化派(独立党)の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。 こうして日清開戦から続く、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年も経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であった。その結果、義和団の乱後にロシアが満洲を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つことになる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、1897年(光武元年)10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、大韓帝国の成立を宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった「迎恩門」および「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑が倒され、前者の跡地にフランスのエトワール凱旋門を模した「独立門」が建てられた。
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