木簡と竹簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 05:10 UTC 版)
木簡と竹簡は最初に使われた紙に代用するものである。文字文化圏で確立は早い段階であったが、いざ甲骨文字で歴史性や伝承録を記載しようとすると紙がないためこのような竹や木に書いていた。なお、竹や木が使われていたというのは町中には生い茂り、確保が容易であったことが背景として存在し、また過去からの発掘の大本を調べていくと「殷」の時代のものが大多数を占めていることがよくわかる。当時の最先端の書写道具としても有名である。「冊」という甲骨文字があり「この文字には竹と木を二つに割って紐で貼り合わせたという意味があるということから殷代には確実に竹簡と木簡があったとされている。 もともと、甲骨文字は「神のお告げを占うおまじない」とされていた。この甲骨文字自体が多く存在し、発掘されたことから文字文化圏の一つとしてすぐに中国が挙がることである。 また、文字によって動物などを現わしたりする際の工夫にいたっては、文字の記号一つで少々する必要がある。例を挙げると、「牛」と「羊」の甲骨文字は非常に似ていて、動物自体の体で表現するのは難しいため、角を利用し大きいものを牛に、小さいものを羊にと区別をするなど工夫をしている。 上記で上げている通り神の「お告げ」を知る占いとされている。それに対して中国で今使われている漢字は、今から三千年余り前の中国で使われていた文字の直接の子孫にあたる。漢字は長い歴史の間に外面的な姿こそ大きくして変化していくのである。それがほかでもなく書体の変化であるが、文字としてのシステムは、今の漢字も数千年前のそれと基本的にはほとんど変わってはいないのだ。三千年以上も前に記録された文字を、「書体の違い」という次元だけで理解できる文字は、世界が広いといえども漢字だけである。その意味では中国はまさに「文字の国」と呼ぶことにふさわしい。 また、過去から継承されている文化遺産や、現在の考古学による発掘の結果から見ていくと漢字自体は中国文学の「殷」の時代になってから使われていき、殷の時代の遺跡などから文字と考えられるものがこれまでに数例発見されている。 しかし、整然とした体系をもって使用されていて解読できる文章を表記し漢字は、殷の晩期(紀元前1300年から紀元前1000年)に使われていた甲骨文字が現在の段階で最も古い文字と称されている。さらに殷の時代では亀の甲羅や牛の角を用いて占うのが主流だ。 通常の竹は約21センチ幅1センチ程度のものですが人間が一から作成しているためすべてが均等ではないことは確かである。出土しているものでは約22センチ幅1.2センチなどバラバラであり、また重要度を示していることが明らかで、さらにその材質の違いは書物としての重要度を反映していた。 普通の木簡はそのような形ではあったが、しかし特定の文書を書籍を書くときには、内容によって異なった形や長さの木が使われていた。例えば皇帝の詔勅は「尺一簡」、すなわち一尺一寸の簡に書かれていたし、儒学の経典では書物の価値に応じて、どのくらいの長さの簡が使われるのかが厳密に定められていた。漢時代の木簡のうちで最も長いのは二尺四寸(約五十センチ)あり、『周易』や『春秋』などの儒学で最も正統的とされる経書はその長さの簡に書かれていたとされている。実際にシルクロード地帯から『儀礼』という経典が発見されたがサイズはこの通り同じだったのである。 この規定に沿って考えていくと、『孝経』と『論語』は漢代ではまだ儒学の中心に位置する経書として考えられていなかったのである。また、普段よく目にかける、「名刺」も木簡の文書に由来していた。 それ以外にも木簡には実に様々な形状とサイズがあり、例えば特殊な用途に使われる木簡の一つに「檄」がある。 それは緊急軍事文書であり、二尺の簡が使われていた檄には送り先へ大至急届けることが必要という意味を示すために鳥の羽が使用されていたとも言う。 今日本語で用いている「檄を飛ばす」というのはもともと戦争などの緊急事態に際して危急を訴え、警戒を呼び掛ける文書を各地に迅速に届けることを指したのである。 名刺はもともと「刺」または「謁」といい、木簡の上に自分の姓名や相手への用件などを書き付けたのが始まりだとされている。他者を訪問した時に、まず、木簡を差し出して相手に面会を求めることを「刺を通ず」と表現するのである。また、この考えが現代に残っていると考えると木簡の一部に過ぎないと感じる。 しかし、最初から木を加工して札を作ろうする場合、木からは様々な形ができるため何もそんな幅の狭い札を作る必要はなく、最初からもっと広い何行でも書けるような板を作ったほうが、文字の記録にとってはるかに便利であることは間違いないだろう。だが、現実に発見される木簡のほとんどは、わざわざ狭い幅に切り取られていた。その結果から、木簡は字のごとく木ではなく、竹から作った札を模倣したものであり、竹簡の代用品としての役割を担っていたに違いない。ただし、竹であろうがどちらも有機物に値するので、亀の甲羅や動物の骨、あるいは青銅器、粘土板、石などと違って地中で簡単に腐ってしまうのである。 そのために古代に実際使われていた竹簡や木簡の実物があまり発見されていない。 このようにして木簡には様々な形態とそれに応じた用途が存在していたのだが、しかし、どんなに長い簡を使用したとしても書ける文字数には制限があるのだ。そこで一本の木簡では書ききれないほど長い文章では何本かの木簡に書き、それを順番に並べて、紐で張り合わせる方法が採用されたのである。これが書物の最も古い形態を現わしていて、このようなものを「冊書」あるいは「策書」というのだ。「冊」は上記でも述べた通り、木簡を並べたもの形を文字にしたもので、これを台の上に載せると「典」という字になります。このようにして作られた書物は一方の端からクルクルと巻いて保管されていたのである。これが後世に書物を数える単位として使われる「篇」で「篇」に竹冠がついているのはもともと書物が竹簡でできていたことに由来している。ちなみに「編」を用いることになったのはもう少し後の時代とされている。さらにまた、木簡や竹簡から紙の時代に入ると、クルクル巻いた書物を数える単位の一つとして「巻」という言葉が用いられるようになった。 このころはあまり使われなくなってきた表現ですが、ある書物を繰り返して読むことを「韋編三絶」という表現方法が存在していた。この言葉も、実はこのような書物の作り方から出現したものである。孔子は『周易』を読むのが大好きで何度も何度も繰り返して読んだために、木簡あるいは竹簡を閉じてあった紐がしばしば切れたともいうのである。これがのちの「韋編三絶」という故事成語になり、話は孔子の伝記である、『史記』の孔子世家に見られる。 また、ここで「韋」というものの存在が出てきたがこれはなめし革のことを指しており、孔子が愛読していた『易』を普通の紐ではなく、丈夫な、なめし皮で閉じていたとされている。それでも「韋」が切れたということなのでよほどよく読んでいたことが理解できる。ただしこれについてはあくまで伝説であるので、実際の発掘ではなめし革で閉じられた冊書はまだ一つも発見されていない。 また、現在までに発見されている中国最古の竹簡は、1953年に湖南省長沙市の南に位置する仰天湖に存在している。戦国時代の楚の墓から発見されたものである。この墓は過去に盗掘されていたため書物などは多く発見することは不可能だったが、棺桶の覆いの間から合計四三枚の竹簡が発見されたのである。さらに、この墓の周りにはハマグリの貝殻を焼いて作った砂状のものが大量に一面に敷き詰められており、おそらくそれが防臭剤の役割を果たしていたので竹簡の状態は非常によく、文字も消え、欠けているところはなく良好である。 さらに、五斗米道時代の関連に似た木簡が出土した。たとえば平城京左京三条二坊の長屋王邸宅跡と左京二条二坊王邸宅の間から出土した木簡は縦301㎜、横28㎜、厚さ4㎜で、釈文を『上代木簡資料集成』に従って示すと、 1行目 米五斗 大豆一斗 小豆一斗 薪廿束 2行目 糯米五斗 大角豆二斗 炭二石 胡麻子一斗 1行目 胡麻油一斗 新小麦一石 扞櫃二合 2行目 糖一斗 小櫃二合 合十三種天平八年= 3行目 =十一月九日内申 と記載されており、木簡に記載されている通り天平八年=前後が中心的に発掘された。米・糯米・大豆・小豆・胡麻・新小麦などの穀物、胡麻油、高価な甘味である糖といった食品から、炭や薪、器具の小櫃・扞櫃に至っている、主に食膳に関係した十三種類の品々の名と数量を列記している。この時代には欠かせないものの一部であることが理解できる。まるで五斗米道がかき集めたかのような木簡の内容であったため参考に載せてみました。
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