五十戸の設置時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:52 UTC 版)
孝徳天皇・斉明天皇時代の「五十戸」木簡は見つかっていない。五十戸が記された最古の資料は、飛鳥京跡から出た木簡と、法隆寺の幡に書かれた文である。木簡には「白髪部五十戸」と書かれており、その年代は、同時出土の木簡に書かれた冠位大花下の使用期間にあてはめ、大化5年(649年)から天智天皇3年(664年)までと推定される。幡には「癸亥年山部五十戸婦」などと書かれ、癸亥年は天智天皇2年(663年)とされる。 重要なのは最古の戸籍である庚午年籍(天智天皇9年・670年)より前に五十戸があったことである。戸を数えて何かを編成するという改革を史料に探し求めると、庚午年籍の前には大化改新詔の「五十戸で一里」「仕丁は三十戸でなく五十戸」が見つかる。大化改新詔の五十戸一里については、五十戸木簡の発見前から史実性について議論が交わされてきたが、引用された詔の文が実際に発布されたものでなく、書紀編者の作文であることには異論がない。その意味で改新詔の大化2年元旦という日付を五十戸制の始期として重視する研究者はいない。詔文の背後に現実の改革の存在を認める学者は、大化改新詔は孝徳天皇の代に五十戸単位の編成が作られた、つまり五十戸が設置されたことを表すものだと考える。改新詔を重視しない場合も、評の設置が孝徳天皇の代になされたことは間違いないので、その下にある五十戸もそれとおおよそ同時に設けられたと考え、孝徳天皇の時代に五十戸が置かれたと推定する。 結論として、五十戸の始期は、資料で確認できる上限としては663年頃の天智天皇の時代であり、学説としては孝徳天皇の時代 (646年から654年)と推測されている。
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