五十沢宍戸家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:56 UTC 版)
江戸時代には幾度となく名主をつとめ、また本家[誰?]と同格に名字帯刀していた。なお、五十沢村は西の上村と東の下村に2分してそれぞれに名主があり、宍戸氏は上村の名主を務めた。江戸時代の宍戸氏は喜宗治を襲名しているが、19世紀初めの3代目喜宗治は、養蚕業で栄えた伊達郡で蚕糸を買い取り、江戸の三井と提携して蚕糸の販売で富を築いた。その財で貧しい者を密かに支援したり、金華山黄金神社の財政破綻の折には多額の寄進をしたり、桑折陣屋焼失には金50両、江戸城西丸焼失の際には金100両を献金するなどの事業を行っている。また和歌にも優れていたという。 幕末の4代目喜宗治は、幕臣として、貧民救済に数百両、西根堰改修に数百両を供出し、江戸城本丸焼失の普請金1,000両、海防費500両、将軍進発用金1,500両、さらに桑折陣屋の人夫の割り当て等、巨額の献金をした。これより江戸幕府から子孫永代に渡る名字帯刀と上級武士と同等の正門の建築を許された。 また明治2年(1868年)、戊辰戦争末期の東北戦争では同族の仙台藩宍戸家大番組50人を預かり、金品、酒などを供出した。 明治以降も五十沢村の村長、学校の校長を出すなど、地域の重鎮として活躍した。 現在、直系は宍戸七郎治の屋号を持ち、五十沢の宍戸氏は20数戸ある。なお、阿武隈川を挟んで五十沢の対岸になる伊達郡舟生(現伊達市梁川町富野)にも多くの宍戸姓があるが必ずしも五十沢宍戸家と同族ではない[要出典]。
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