耕野宍戸家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:56 UTC 版)
五十沢から宍戸大和泉が陸奥国伊具郡西根の耕野(こうや:現在の宮城県伊具郡丸森町耕野)に分家し、慶長5年(1600年)、伊達政宗の白石城攻略の折、伊達政宗に従って功績をあげた。宍戸大和泉の分家筋も伊達政宗から宍戸姓を名乗ることを許され現在まで血脈を保っている[要出典]。 伊達氏の白石城攻略時の耕野は最前線と位置づけられ、半農半士の耕野の住民に加勢を要請したものと思われる[要出典]。 宍戸大和泉を初代とする耕野宍戸家は以後名前の一部に「和泉」「駿河」を数代繰り返す。耕野が伊達政宗の支配になってからは伊達家の直轄地となり、耕野、大張の主要十一家を基盤に馬上十一騎と槍鉄砲百五十人組が組織され、そこに住む住人は「僅かな金数と兵役をもって年貢とする」という厚遇を受け、国境の警備を担当し相馬氏との戦いでもまた功績をあげたという。宍戸大和泉の家系も馬上十一騎構成する十一家の一つである。 『丸森町史』[要文献特定詳細情報]の中に監修されている文献や「耕野に移り住む前から庄屋だった」との言伝えから五十沢 宍戸家(屋号 庄屋)からの分家が移り住んだ説が有力である[要出典]。耕野宍戸家に関する記述は以前に家屋が火災に遭い家系図その他文献が焼失している為、直系子孫に伝わる言伝えと『丸森町史』[要文献特定詳細情報]をもとに編集している。 耕野には他にも宍戸姓の家系があり同じく五十沢から移住したものと思われる[要出典]。現在の宮城県白石市の宍戸姓は伊具郡西根耕野の各宍戸家の流れを汲むもの多い[要出典]。 五十沢の有力者であった小野刑部は、上杉景勝の家臣で梁川城主となった須田長義に仕え、伊達政宗の伊達郡侵攻を撃退した戦での功を認められている。この小野刑部自筆の大盤振る舞いの座敷割りに宍戸左馬之丞の名がある。この座敷割りには宍戸氏以外に岡崎氏、引地氏(曳地氏)、佐藤氏、遠藤氏の名がある。江戸時代を通じて何度も領主や代官が替わったにもかかわらず、いずれも現代に至るまで五十沢の主要家系として血脈をたもち、明治以降は五十沢村の村長、校長などを輩出している[要出典]。 その他、旧伊達家領地の仙台青葉城以南、亘理、角田、川崎には伊達一門の知行地があり、そこにも宍戸姓があることから伊達家との繋がりがうかがわれる[要出典]。
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