五十戸から里・郷へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:52 UTC 版)
出土木簡の中に里が初めて現れるのは天武天皇12年(683年)三野大野評阿漏里(美濃国大野郡)で、その後しばらく五十戸と里が併用され、荷札に五十戸が最後に現れるのは持統天皇元年(687年)である。 五十戸から里への改称には、編纂中の飛鳥浄御原令の先行的施行や、国(令制国)の境の確定事業との関係が指摘される。制度改革をともなわない表記だけの改定だったらしい。 里は大宝元年(701年)の大宝律令による国郡(評を改称)里制へ引き継がれたが、霊亀三年(717年)里を郷とし、郷をさらに細分して2、3の里(コザト)を設けて郷長・里正を置き、国・郡・郷・里の四段階にした。いわゆる郷里制である。しかし天平12年(740)里が廃止され、オオザトは郷の表記のままで、国郡郷制となって後世まで続いた。五十戸・里ともに断片的に名が残ったものが知られるだけで、全国の一覧はないが、郷は平安時代の『倭名類聚抄』(和名抄)にすべてがおさめられている。計測対象により数値の違いがあるが、知られる五十戸のうち、約3分の2は和名抄の郷に引き継がれた。里の残存率と比べて違いはないので、五十戸と里の間に改名・分合などの大きな編成替えはなかったと推測される。
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