モンゴル帝国の侵入
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「ジャラールッディーン・メングベルディー」の記事における「モンゴル帝国の侵入」の解説
詳細は「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」を参照 1219年秋よりモンゴル帝国のホラズム・シャー朝への攻撃が開始されると、アラーウッディーンはトランスオクシアナを放棄して逃亡する(モンゴルのホラズム・シャー朝征服)。この時にジャラールッディーンは退却に反対し、自分に軍を預けるよう説いたが、アラーウッディーンは彼の切望を容れなかった。 アラーウッディーンがモンゴル軍の攻撃を避けてカスピ海の小島アバスクン島(英語版)に逃れた時、ジャラールッディーンも弟のウズラグ・シャー、アークシャーと共にアバスクン島に落ち延びた。モンゴルの攻撃が始まる前にホラズム・シャー朝の皇太子に指名されていたのは末弟のウズラグ・シャーであったが、病床にあったアラーウッディーンはジャラールッディーンが国を救える人物であるとして、ウズラグ・シャーに代わって彼を後継者に指名した。父が病死した後にジャラールッディーンはウズラグ・シャーらと島を脱し、マンギスタウ半島を経て首都クフナ・ウルゲンチに帰還し、1221年にスルターンに即位した。彼の入城はクフナ・ウルゲンチの市民より歓迎を受けたが、ホラズム・シャー朝の軍隊の中心を成すカンクリ族の集団は、傀儡に適したウズラグ・シャーを擁立するため、ジャラールッディーンを殺害しようと企みを巡らせた。陰謀を察知した彼はただちにクフナ・ウルゲンチを脱し、モンゴル帝国の追撃を逃れた将校ティムール・メリクと合流した後、モンゴルの包囲網を破ってニシャプールに逃れた。 4日間のニシャプール滞在の後、1221年2月10日にニシャプールを発ち、モンゴル軍の追撃をかわして領地のガズナに辿り着いた。ジャラールッディーンの留守中、ホラズム・シャー朝の将軍たちがガズナの支配権を巡って争っていたが、ジャラールッディーンは彼らホラズムの人間とカンクリ族、加えてゴール人やトゥルクマーンなどの現地の民族を糾合して兵を集め、その数は60,000から70,000人にのぼった。同年春にワーリヤーンをモンゴル軍の包囲から救い、モンゴル軍司令官シギ・クトク率いる30,000のモンゴル軍をカーブル近郊のパルワーンで破って大勝を収める(パルワーンの戦い)。 しかし、パルワーンの戦いで得た戦利品の分配を巡って問題が起こる。カラジ族とトゥルクマーンの指導者であるサイフッディーン・アグラークやゴール人の指導者アザム・マリクら、ジャラールッディーンの裁定を不服とした一団が軍より離脱し、ホラズム軍の兵数は半減した。 シギ・クトク敗戦の報を受けたチンギス・カンは、中央アジアに駐留していた本軍を率いてアフガニスタンに急行し、チンギス・カンの接近を知ったジャラールッディーンは南に退却する。モンゴル軍はインダス河畔でジャラールッディーンに追い付き、包囲攻撃によってホラズム軍を壊滅に追い込んだ(インダス河畔の戦い)。ジャラールッディーンは700人の兵士を率いて数度の突撃を敢行するがモンゴルの包囲を突破できず、最後の突撃でモンゴル軍をひるませた後、鎧を脱いで乗馬もろともインダスの濁流に飛び込んだ。彼は盾を背負って旗を握った状態で馬に乗ってインダス川を渡り切り、河畔に着いたチンギス・カンは追撃を行おうとする兵士を止め、付き従う皇子たちに彼を模範とするように言った。彼に続いて川に飛び込んだホラズム兵の多くはモンゴル軍に射殺され、彼の家族は捕らえられ、男児は処刑された。
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