モンゴル帝国のウルスとは? わかりやすく解説

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モンゴル帝国のウルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:47 UTC 版)

ウルス」の記事における「モンゴル帝国のウルス」の解説

13世紀初頭モンゴル高原統一したチンギス・カンは、支配するモンゴル高原西端長男ジョチ次男チャガタイ三男オゴデイの3子に4000戸(4個千人隊)ずつの遊牧集団を、東端には3人の同母弟とその家族合計12000戸(12千人隊)の遊牧集団ウルスとして与え皇帝権力から半ば自立した遊牧政治集団形成させた。また、チンギス・カンオイラトオングートのようなモンゴル服属した有力な部族集団複数千人隊としてある程度自立した政治集団として存続させることを許しており、モンゴル帝国イェケ・モンゴル・ウルス名乗り中軍としてのカアンハーン自身ウルス中心に大小ウルスウルス準じるものが集合した遊牧部族連合的な性格をもった。これは、モンゴル帝国限らず匈奴からジュンガルまで中央ユーラシア興起した多く遊牧国家共通してみられた特徴である。 やがて、ジョチチャガタイオゴデイ3子の子孫と、のちに西アジア征服派遣されチンギスの四男トルイの子フレグの子孫は、それぞれモンゴル帝国西方大規模なウルス形成した。これらのウルス君主は汗(カンハン,Qan)を称したため、汗の治め国家という意味でしばしば汗国ハン国/khanate)と呼ぶ。一般には、中央アジア支配したチャガタイ・ウルスチャガタイ・ハン国キプチャク草原支配したジョチ・ウルスキプチャク・ハン国金帳汗国)、西アジア支配したフレグ・ウルスイル・ハン国イルハン朝)と呼び総称して「三汗国」と呼んでいる。しかしながら汗国」と称するものの、実際には国といえる実態ではなく遊牧民族のみを支配下とした。遊牧民定住せず草原移動するので、汗国境界線というものも実際に存在しない等しかった汗国領域内(明確な領域存在しないので正確な言い方ではないが)の非遊牧民族定住民・都市に関しては、モンゴル帝国の支配にあった。 しかし「カイドゥの乱」が転機となり、汗国大きく変容する。オゴデイの孫であるカイドゥは、モンゴル皇帝権力からの分離独立志向しいわゆるカイドゥの国」を成立させ、定住民や都市をも支配下とした。しかし1301年カラコルム戦いタミール戦いでモンゴル帝国敗北して勢力減じその死後ドゥアによって1306年頃「チャガタイ・ハン国によるカイドゥの国の併合」がなされた。これと同時期に、他の汗国周辺農耕地都市とそこに住む定住民まで支配するようになっていき、実質上のとなった。この出来事指してかつてはモンゴル帝国分裂といっていたが、実際に元の皇帝カアンハーン)を宗主として、モンゴル帝国の4ウルス緩やかな連合14世紀前半まで続ける。 その後モンゴル帝国後の遊牧民社会再編繰り返しながら、チンギス・カン末裔君主とする政権次第消滅していき、1783年クリミア・ハン国ロシア帝国征服されたことをもってチンギス裔を君主に頂く国家消滅した

※この「モンゴル帝国のウルス」の解説は、「ウルス」の解説の一部です。
「モンゴル帝国のウルス」を含む「ウルス」の記事については、「ウルス」の概要を参照ください。

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