モンゴル帝国におけるタンマチの地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)
「タンマチ」の記事における「モンゴル帝国におけるタンマチの地位」の解説
オゴデイ自らが自身の「四大功績」の一つにあげるタンマチの創設であるが、その一方でタンマチに属する将官・兵卒は必ずしも厚遇を受けていたわけではなかった。『元朝秘史』にはオゴデイ がバトゥと仲違いした自らの息子グユクに対して「先鋒軍(アルギンチ)にでも放ってやって、十の指の甲のすりへるまで山の如き城を這い上がらせん。鎮戍軍(タンマチ)にでも追いやって、五つの指が擦りむけるまで幾重にも築きたる堅き城を這い上がらせん」と述べたと記されているが、 これはオゴデイがタンマチがモンゴル正規軍に比べて地位の低い、過酷な任務をこなすものと認識していた証左である。 実際に、史料上に現れるタンマチの司令官は、建国以来の伝統ある千人隊長の家系出のテムデイ・タガチャルやチャガタイ家の千人隊長であったアンチュルといった例外を除き、概して出身部族が不明か、弱小部族の出身者ばかりが選ばれている。一方、 タンマチの長官の多くはコルチ(箭筒士)を称しており、カアンの親衛隊から抜擢されたことが伺える。以上の点から、タンマチの長官は有力な後ろ楯をもたないが、親衛隊の出身者としてカアンの信任の厚い人物が選ばれていたといえる。 各地域のタンマチもモンゴル正規軍からは蔑視を受けており、先述したようにインド方面軍が「カラウナス(混血児)」と呼ばれてさげすまれていたのも、同様の蔑視観が根底にあると考えられている。また、東方の大元ウルスでは各地に駐屯しているタンマチは重い軍役を貸されており、1303年にコシャンは「山東・河南方面に駐屯する蒙古軍(=タンマチ)は出征金を自前で準備せねばならず、田地や妻子を売り払ってまでもその費用を贖っている」旨を報告し、朝廷による救済を請願したことが記録されている。
※この「モンゴル帝国におけるタンマチの地位」の解説は、「タンマチ」の解説の一部です。
「モンゴル帝国におけるタンマチの地位」を含む「タンマチ」の記事については、「タンマチ」の概要を参照ください。
- モンゴル帝国におけるタンマチの地位のページへのリンク