モンゴル帝国におけるノコル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:16 UTC 版)
「ノコル」の記事における「モンゴル帝国におけるノコル」の解説
最初期のチンギス・カンの勢力はキヤト氏の諸集団による連合体であったが、チンギス・カンは自らに絶対的な忠誠心を有さないキヤト氏族長を信頼せず、あくまで自らのケシク=ノコルたちを信任しその規模を拡大させていった。1206年、モンゴル高原を統一したチンギス・カンがモンゴル帝国を建国した時、かつてケシクを務めたノコルたちは千人隊(ミンガン)を与えられて遊牧領主(ノヤン)となった。またチンギス・カンは千人隊長たちに自らの子弟をケシクに入隊させるよう通達し、ケシクを務めた者が千人隊長になり、その後継者もまたケシクを経て千人隊長になるというシステムが確立された。 こうしてチンギス・カンのノコルたちの子孫は代々モンゴル帝国の支配層を担うようになり、モンゴル帝国の貴族層を構成した。このため、モンゴル帝国及びその後継国家において「ノコル」とは「僚友」という原義から転じて「チンギス・カン一門に仕える譜代の御家人」といったニュアンスを持つようになった。 フラグ・ウルスで編纂された『集史』にはnūkar(ノコル)の訳語としてしばしばamīr-i buzurg(直訳すると「大アミール」)が用いられ、通常のamīr区別されて用いられた。『集史』におけるbuzurgはモンゴル語yekeの訳語でもあり、単に「偉大な」という形容詞ではなく、「チンギス・カン一門の〜」といったニュアンスも含む術語であった。志茂碩敏は以上の見解を踏まえて、『集史』のamīr-i buzurg=nūkarは「(チンギス・カン一門の)御家人」と訳すべきである、と述べている。
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