モンゴル帝国におけるビチクチの起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 00:19 UTC 版)
「ビチクチ」の記事における「モンゴル帝国におけるビチクチの起源」の解説
12世紀末にチンギス・カンを中心として勢力を拡大してきたモンゴル・ウルスは、南宋より訪れた使者が「モンゴルが起こった時、文書はなく、命令を発し使者を派遣する時にはただ指に刻むのみであった(今韃之始起、並無文書、凡発命令、遣使往来、止是刻指以記之)」と述べるように当初文書行政を行う段階に至っていなかった。モンゴル帝国の国家運営にとって大きな転機となったのが1204年のケレイト・ウルス征服で、 モンゴルに先んじてウイグル文字を用いた文書行政を施行していたケレイトの征服は多数の書記官僚をモンゴルにもたらした。 チンカイ、シラ・オグルといった最初期にチンギス・カンに使えた者達は皆ケレイト部出身かケレイトに縁のある者で、これらの人材を得たことがモンゴル帝国における文書行政の起源になった。また、1205年のナイマン部征服に先立ってチンギス・カンはケシク制度の整備を行っているが、このときにビチクチ制度の整備も行われたのではないかと推測されている。 1206年、モンゴル高原を統一したチンギス・カンはモンゴル帝国を建国し、これ以後周辺諸地域域の征服を始めるようになった。周辺諸国を征服する過程でチンギス・カンはチュンシャン、耶律楚材といった被征服民をビチクチとして登用し、征服地の人民に対する命令書の作成などを任せた。ただし、これらの現地採用ビチクチの権限はきわめて限定されたものであり、ウルグ・ビチクチたるチンカイの最終的な決済がなければ文書発行ができなかったことなどが知られている。
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