モンゴル帝国のトルキスタン征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:30 UTC 版)
「別失八里等処行尚書省」の記事における「モンゴル帝国のトルキスタン征服」の解説
モンゴル帝国が始めて中央アジア方面と関わりを持ったのは1210年代初頭、天山ウイグル王国の君主バルチュク・アルト・テギンが自発的に投降してきた時のことであった。チンギス・カンは武力による征服ではなく進んでモンゴル帝国の傘下に入ってきたことを高く評価し、自らの娘を与えて「五番目の世嗣」と呼ぶほどの厚遇を与えた。これに続き、1218年には西遼を征服して東トルキスタン一帯を制圧し、1220年代初めにはホラズム・シャー朝を征服して西トルキスタン一帯も征服した。しかし、中央アジア方面では東方の『元史』、西方の『集史』のような浩瀚な史書が編纂されなかったために断片的な史料しか残されておらず、モンゴル帝国がどのように中央アジアを支配したかについては不明な点が多い。ただし、断片的な記述から華北(ヒタイ)のようにモンゴル人諸王が諸都市を投下領として所有し、統治体系は既存のものを尊重しつつ代官として送り込んだダルガチ(ダルガ)を介して税収・徴発を得るという形をとっていたとみられる。
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