モンゴル帝国との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 08:21 UTC 版)
「サキャ・パンディタ」の記事における「モンゴル帝国との交渉」の解説
この頃、モンゴル帝国のカアン(皇帝)オゴデイは、第二皇子のコデンをチベット遠征に派遣した。1240年にコデン軍の将のドロアダイ(rDo rta nag)が兵を率いて中央チベットに侵入し、ラサの東北ラデンで僧俗数百人を虐殺し、ギェンラカン寺を焼くなどの猛威を振るった。9世紀の吐蕃の滅亡後、統一王朝が現れず、分裂していたチベット社会は、モンゴル軍の突然の侵入に驚き、ヤルルン(Yar klung)家のデシ・ジョガ(sDe srid jo dga')とツェンパ(Tshal pa)のクンガドルジェ(Kun dga' rdo rje)を請和使として降伏を申し入れたが、その結果は不明である。1241年のオゴデイ崩御により、モンゴルのチベット計略は一時中断したが、コデンはその後もチベット支配を試み、当地の高僧として知られたサキャ・パンディタの来訪を招請した。サキャ・パンディタは甥のロドゥ・ギェンツェン(bLo gros rgyal mtshan、通称の「パクパ('Phags pa)」で有名、当時11歳)とチャクナ・ドルジェ(チャクナ、6歳)を伴って1244年にサキャを出発。1年余の旅を経て、1246年にコデンの封地である涼州に到着したが、コデンは同年に開催されていたクリルタイに参加するためで留守であった。コデンは1247年に封地に帰って、サキャ・パンディタに謁見した。この時サキャ・パンディタは、皇子に『呼金剛』の灌頂と講義を行ったという。こうしてモンゴルによるチベットの武力征服は回避され、平和裡にチベットはモンゴルに従うこととなった。以後、サキャ・パンディタは皇子の侍僧として仏教の普及に努め、1251年に涼州東方の蘭州トゥルペー・デ(sprul pa'i sde)寺で入寂した。享年70。 甥のパクパはその後1253年に皇弟クビライに謁してその侍僧となり、後にクビライがカアンとして即位すると国師となって、パスパ文字を作成。その功績で帝師・大宝法王となり、サキャ派によるチベット支配および、チベット仏教がモンゴルに庇護されるきっかけとなった。
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