カイシャン一派の粛正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:24 UTC 版)
1311年(至大4年)、クルク・カーンが在位4年で急死すると、新たにブヤント・カーンとして即位したアユルバルワダはすぐにクルク・カーン政権の有力者を軒並み処刑し、新政権を発足させた。即位後間もない大量粛正、後述するカイシャン遺児への弾圧などからクルク・カーンの急すぎる死もアユルバルワダ一派による謀殺であって、一連の変転は事実上のクーデターであると見られる。また、クルク・カーンは即位以前からの側近であるフーシン部のオチチェルをモンゴリアに駐屯させ、その息子ワイドゥに父と同じ地位を与えて身近に置いていたが、建国の功臣たるボロクルの子孫でカイドゥ討伐の英雄たる彼等には流石に手出しできず、従来の地位のままとした。また、アルタイ方面に駐屯する旧カイシャン麾下の軍団長にも高い地位を授けることで懐柔しようとしている。 即位から5年、政権の基盤固めを終えたと見たブヤント・カーン政権は遂に「アユルバルワダが即位した時は、カイシャンの息子(コシラ)を皇太子に立てる」という広く知られた約定を破棄してアユルバルワダの実子シデバラを立て、残るカイシャン派勢力を一掃することを決意した。『元史』ダギ伝などの記述によると、ダギとその配下(テムデル、シレムンら)はコシラが英気に満ちている反面、アユルバルワダの実子シデバラ(後の英宗ゲゲーン・カーン)が柔弱なのを見て、シデバラを後継者とした方が都合が良いと判断したという。 1315年(延祐2年)10月22日、ブヤント・カーン政権はまずカイシャン派最大の大物アスカン(ワイドゥ)から太師の地位を奪って陝西行省丞相とし、代わりにダギの側近テムデルを新たに太師に任命した。その1カ月後、同年11月にコシラは「周王」に封ぜられ、雲南行省の統治を命じられた。王位の授与という形をとりながらもこれは事実上の僻遠の雲南地方への配流であり、翌1316年(延祐3年)3月にコシラは護送つきで雲南へ出発させられた。コシラ出発の僅か9日後、ブヤント・カーンらは「夏の都」上都開平府に向けて出発しており、アスカンの降格からコシラの雲南追放はこの時の「冬の都」大都滞在中に始末をつけるという意図があったと考えられている。そしてこの年の上都滞在を経て、大都に戻ってきたブヤント・カーンは満を持して同年12月、実子のシデバラを皇太子の座に就けた。
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