「チャガタイ・ウルス」の復興
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「カラ・ホジョの戦い」の記事における「「チャガタイ・ウルス」の復興」の解説
しかし、1293年にクビライが亡くなると中央アジア情勢は急変し、カイドゥが大元ウルス領への侵攻に失敗して亡くなると(テケリクの戦い)、チャガタイ家のドゥアが「カイドゥ・ウルス」を乗っ取り「チャガタイ・ウルス」を復興させた。復興したチャガタイ・ウルスは当初大元ウルスと友好関係にあったもののブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の代に関係が悪化し、ウイグリスタンは一時大元ウルスによって再占領された(エセンブカ・アユルバルワダ戦争)。 しかし、皇族のコシラがブヤント・カアン政権に叛乱を起こしてチャガタイ・ウルスに亡命すると、大元ウルス軍の中からトガチらがこれに合流し、中央アジア情勢は再びチャガタイ家に有利に傾いた(トガチの乱)。1328年にコシラがウルスから大元ウルスに帰還して即位すると(天暦の内乱)、チャガタイ家を即位の功労者として尊重した。コシラは即位直後に暗殺されてしまったものの、このような経緯から大元ウルスはチャガタイ家のウイグリスタン領有を正式に認めることになった。コシラの死後擁立されたトク・テムルの即位記念に『経世大典』という政書が編纂されたが、『経世大典』付随の地図(「経世大典輿地図」)にはウイグリスタンがチャガタイ・ウルス当主ドレ・テムルの領地であると明記されている。以後、この国境線は明朝とモグーリスタン・ハン国の関係にも引き継がれている。
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